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四十二章経の教えシリーズ〔15〕

(出典:書き下ろし)

 お寺に生まれ育ち、今まで色々な事がありました。「お坊さんというのは亡くなった人の為の仕事でしょ」と小学生の頃、同級生に言われ、流されやすかった私は「そうかもなあ」と物心がつくまでぼんやりと考えておりました。勿論亡くなった方の為、ご先祖様の為にご供養をするのですが、お釈迦様の勉強をしている今なら「亡くなった方のご供養をしながら、同時に今生きている方の力にもなれる、生き方の手助けをしてくれるのが仏教だ」とはっきり言えます。この生き方の手助け、どのように生きるべきかと言う事を、お釈迦様は沢山の言葉や様々な譬えでお示しくださいました。

 『四十二章経』というお経にこのような言葉がございます。

 次のように釈尊は説かれた。

 人がいろいろな過ちを犯して、ただちにそれを悔い改め、同じ過ちを二度とくり返さないように心掛けなければ、その罪はどんどんと積み重なり、増大していく。それはあたかも、海に水が流れ込んで、だんだんと増えて深くなっていくようなものだ。
 悪い事をしても。それが善くない事であったと気づき、みずから反省し、悔い改め、善い事をしつづけていけば、これまでの罪は日ごとに消滅して、ついには道を得ることができる。

(『四十二章経』第四章より)

 善いことをしたい、悪いことはしたくない。私だけでなく恐らくほとんどの人がこの様に考えると思います。しかし人間ですから、いつ如何なる時でも完璧に振舞うという事は難しいものです。
 お釈迦様在世の時代、修行者達は三、四人くらいのグループで集団生活をしておりました。そして半月毎に自らの過ちをお釈迦様や長老たちの前で告白して悔い改めました。この儀式をウポーサタ(布薩 ふさつ)と言います。厳しい規則のもと、修行者達は自らの行ないをしっかりと見つめたのです。なぜなら過ちを改めずにいると道を得る事ができない。つまり仏になれない、悟りを開けないからです。仏教徒にとっては今も昔もこれが一番の大きな罰になります。
 現代を生きる私達はどうでしょうか。忙しい毎日の中で色んな出来事が重なり余裕が無くなってしまい、心にもない言葉を投げかけて相手を傷つけてしまう事もあるでしょう。しかし、もしもその時「しまった、悪い事をしたな」という気持ちがあるならば、これは仏様の心の表われです。

ren_2101b_link.jpg 現代日本において、お釈迦様や長老の前で罪を告白するという機会はございません。ではどうするのか。過ちの告白というと少し大仰になりますので、報告というのはどうでしょう。お家にお仏壇がある方は、夜寝る前にお仏壇に向かってその日あった出来事を報告してみる。良い事も悪い事も有り体に申し述べるのです。声に出すのが恥ずかしい方や、お家にお仏壇が無い方はじっと両手を合わせて頭に思い浮かべるだけでも良いでしょう。その時間を持てるか、自分の仏様の心を見つめ直す事が出来るかが大事なのです。
 毎日して頂けたら最高ですが、そうもいかないかもしれません。そんな時には皆さんの菩提寺を思い出してください。お寺にはお彼岸やお盆、普段のご法事等々、様々な行事がございます。その都度ごとに自分の心を見つめ直す、思いを改める機会にして頂ければ幸いです。仏様はいつでもそばにいて下さいます。
 まずは皆様のご健康を第一に、一所懸命に日々を生きていくための一助となれるよう私も精進していきたいと思います。

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