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四十二章経の教えシリーズ〔14〕

(出典:書き下ろし)

ren_2012b_link.jpg 『四十二章経』の三十三章に次のようなお話があります。

 ある夜、修行僧が経を唱えていると突然悲しくなました。彼は出家した事を後悔し、在家に戻ろうと考え始めていたからです。釈尊はその修行僧を呼んで質問をしました。
 「あなたは、家に居た時どんな事を学びましたか」とすると彼は「私、琴を学んで弾いていました。」と答えました。
 そこで釈尊は次のように言いました。
 「その弦が緩ければその音はどうなりますか」
 「音は出ません」
 「それでは、その弦がきついとどうなりますか」
 「まったく音は出ません」
 「それでは、緩くもなく、きつくもなく、ちょうど良い具合だったらどうですか」
 「それはどんな音でも出す事ができ、上手く弾く事ができます」

 そこで釈尊は、その修行僧に「仏道を学ぶのもそれと同じ事である。過ぎることなく、心が良く調えられて、バランスがとれているならば、その道を完成することができるであろう」と言われたとの事です。
 両極端を離れてバランスの取れた修行をする。これを「中道」と申します。バランスをとる。確かに大切な事であります。

 私たちが日々生活する上において何より大切な事は心と体のバランスであります。しかし、令和二年初旬から拡大の始まった新型コロナウイルス感染症の為に、私たちは心と体のバランスが崩れそうになっているのではないでしょうか。三密、マスク、人混みには行かない、自粛自粛の生活を余儀なくされています。「どうして自分だけがこんな目に遭うんだ」という気持ちにもなるでしょう。心の乱れから体調を崩し、また気持ちが塞ぎ込んでしまう。このような負の連鎖を打開できるかどうかは、やはり自分の心持ち次第です。目の前の現状は変わらなくてもそれをどう捉えるかによって見える世界はいくらでも変わってくるのだということは忘れてはなりません。
 ある法事で檀家さんに「コロナで出かけられないから大変ですね」と申しましたら、「良いじゃないですか、和尚さん。和尚さんはいつも法事の時に自分を見つめ直せと言われているじゃないですか。この機会に私も坐禅を体験してみたいです」と言われた事がありました。釈尊は正にこの事を実践された方です。釈尊は心の不安がどうしても晴れることなく最終的に出家されて坐禅を行じて悟りに至られたのです。
 坐禅とは自分を深く深く掘り下げて行く行であります。正に自分とは何のだという命題に向かって、次から次から湧き出てくる妄想執着(もうぞうしゅうじゃく)を払いながら突き進んでいくのです。

 私が西宮の道場で就いていた老師が私たち修行僧を導く為にいつも、「自分の中にもう一人すてきな自分がおる」という事を言われておりました。「もう一人のすてきな自分」こそが「仏心・仏性」に他なりません。だから我々の禅宗を別名「仏心宗」と言うのです。どうぞ一日のうち5分でも10分でも結構ですから、生活の中に坐禅を込みこんで頂きたいと思います。それが私たちの心と体のバランスを調えてくれると私は信じております。

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