法話

フリーワード検索

アーカイブ

四十二章経の教えシリーズ〔12〕

(出典:書き下ろし)

ren_2011a_link.jpg 『四十二章経』第四章には懺悔(さんげ)について、次のように説かれています。
 「人は色々と過ちを犯すが、すぐに心から懺悔し、善いことをし続ければ、罪は自然に消え、真実の道を得ることができる」と。
 「懺悔」とは、自分の犯した過去の罪業を悔い改め、罪の許しを乞い、再び同じ過ちを繰り返さないように誓うことです。
 ところで、人間として守るべき誡めがありながら、それを守れないのもまた人間というものの性であります。私たちはつい知らず知らずのうちに悪口を言ったり嘘をついたり、また、蚊やゴキブリなどを殺したりと、さまざまな罪を犯しているのです。それどころか、わざわざ生き物を殺して食べる私たちが、果たして自信を持って善人だと言えるでしょうか。

朝きし しろたえの衣 夕されば かなしき悔いの 色そめてけり

(九条武子)

 人間はどんなに気を付けていても、知らぬまに過ちを犯しているので、早くそれに気付き、懺悔して心の汚れを洗うことが大切です。もともとは、懺悔せずにおられないのが、私たち人間なのです。

朝夕に 手足も顔も 洗うなら 心の垢も 濯ぐべきなり(作者不詳)

 拙寺の近くに、作家であった外村繁さんの生家があります。外村さんは少年期、家庭の事情で、叔父さんによって育てられました。叔父さんは蛇を飼育するのが趣味でした。蛇が餌の蛙を呑んでいくと、蛙の悲しい声にいたたまれず繁少年は、「叔父さん、蛇を飼うのを止めてください。蛙が可哀想です」と頼みます。
 すると叔父さんが、「何を言うか。お前だって魚や肉を食べているじゃないか」と言われたので、「僕は今日からお魚や肉は食べません」と答えます。さらに叔父さんから、「魚や肉だけに命があるわけではない。お米や野菜、果物もすべて命があるのだぞ」と言われ、衝撃を受けたと言います。叔父さんの一言で、「自分が生きられるのは、多くの命を犠牲にして生かされているからだ」と繁少年は気付かされたのです。
 お釈迦さまは、「自らを省みて懺悔する人こそ、ほんとうに荘厳な人である」と説かれています。

 昭和の初め、島根県に舟大工をしている今田常蔵という人が居りまして、舟が売れ大金が入ると、放蕩三昧の日々。今日も大金を手にして遊びに出ます。相方に芸を望むと、三味線を手に「衣装は借りもの、身体は親方のもの、心一つが私のもの」と唄いました。
 この歌を聴いて常蔵は、「嗚呼、本当にそうじゃ。いかに奇麗に着飾っても、この五体といえども、死出の旅に着ていくものは帷子一枚、他に何一つ持って行けぬ」と悔い改めたので、彼の生活態度はその日から、ガラリと変わったと伝えられています。
 その後はあちこちのお寺を巡り、破損しているところを手弁当で修理しました。しかも貯めたお金で、菩提寺の鐘楼を寄進建立したので、当時のご住職が碑を建て、今に彼の徳を伝えています。

 かつて平成20年11月、拙寺で三日間の授戒会を厳修しましたとき、唱名師の西村惠信先生(花園大学元学長)が、

後に妙心寺の管長になられた河野太通老師はよく、「今の和尚は妻帯もする。法事に行けば酒も呑む。偶には嘘もつく。だから、たとえ和尚といえども、『我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)、皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)、従心口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)、一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)』と、常に懺悔せねばならん」と言われていた。

と話されました。
 誰にせよ、過ちを犯したなら懺悔する、自ら悔い改める。これが立派な人であると、お釈迦さまも説かれております。人が人となる道として、「懺悔」は大切な行でなければなりません。

Back to list