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どうしてお坊さんをしているのか

(出典:書き下ろし)

ren_2010b_link.jpg 先日のこと。コロナで親戚を集められない、ということで、ご自宅で行われた少人数の一周忌法要に赴きました。読経後、参加していた小学校低学年とおぼしき男児から「お坊さんは、なんでお坊さんをしているの?」とのご下問を頂戴しました。あまりにも無邪気で突然の問いに、「うーんなんでだろう……」と思わす口ごもってしまいました。「なぜ坊さんになったのか」という質問ならこれまで数多いただいたので、”そつなく”答える準備はあるのですが、さてなぜおまえは坊主でいるのか、と問われると出るのは冷や汗ばかり。まるでお師匠様との禅問答のようです。

 これは決して、子供向けにわかりやすく答えるのが難しかった、というたぐいのことではなく、改めて「なぜ今私は現在進行形で禅宗の坊主でいるのか」、すなわち「己が禅僧としてなすべきことはなんぞや」と問われて答えに窮したということです。スパッと答えが出てこないところが情けない。私は必死に頭を巡らせました。

 まず思いついたのが「上求菩提(じょうぐぼだい)下化衆生(げけしゅじょう)」という言葉です。上に向かっては菩提を求め下に向かっては衆生を教化するの意で、仏の教えを極める為の自らの修行(自利行)と、それによって他を導き教化する(利他行)の合一を述べた言葉です。「往生要集」などに出てくる言葉で、僧侶にとって忘れてはならない心構えを表わした言葉です。さらに禅門では「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」といい、我れは未だ悟り得ずといえども先ず他を先に度す、すなわち、自らはあくまで修行中であるが、その修行で得た仏果を惜しまず人々を救え、と教えられます。そのことをうっかり忘れて、普段「ご住職様」などとおだてられ、いい気になっていた私の心を見透かして(?)厳しい問いを投げかけた先ほどの小さなお師匠様は、まごつく私にあきれたのか飽きたのか、もうすでに目の前のお菓子に夢中でありました。

 お釈迦様は菩提樹下の最初の悟りの後、四十五年間の布教教化にあたられました。それは自らのご修行の旅路であると同時に、様々な体験や思索を深める中で、さらなる悟りを得られるための時間であったのだと思います。
 我々は誰しも、生老病死の苦しみから逃れることはできません。ならば、なぜ苦しむのかを自らが考え、苦を苦と感じる心を自らでコントロールするしかないのです。神仏に救ってもらうのではなく、自らが悟るしかない。お釈迦様自身も同じなのです。そのことに気づかれたお釈迦様は、さらに自らの行を深めつつ、同じく苦しむ人々に、その都度優しく「苦を見つめ、苦の原因を考え、苦を乗り越える」方法を教えられ、安心の道をお示しになる旅をなさったのです。
 ひとたび坊さんとなったならば、我れ未だ至らざりきといえども、その御心に沿うことが、己れのなすべき働きなのだと思うのです。私自身はもちろん修行中であり、しかしその最中に得た小さな悟りのタネを、惜しまずに檀信徒を始め、出会った方々におわけしていくこと、そのための努力をやめないこと、それこそが坊さんとしてのなすべきことなのでした。

 やっと自分のなかで答えが出た頃、小さなお師匠様は、先ほどと同じ無邪気なお顔をしながら「甘くておいしいよ」と抱えていたお菓子を一つ私にくれました。なすべき道を思い出したご褒美であり、ありがたい仏果でありました。少し仰々しく頭を下げて、おいしくお菓子を頂きました。次の法要の時には、今度は私から、彼にも何か仏果をお示しできるように、いっそう頑張らねばならない、と思いました。コロナ禍にあって、大変いい時間でした。

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