願う心 ~身近な仏道~
(出典:書き下ろし)
―普回向から―
願わくは此の功徳を以て
普く一切に及ぼし
我等と衆生と皆共に
仏道を成ぜんことを
この普回向は坐禅や写経、御詠歌などお寺での行事の際に一緒にお唱えする方も多いと思います。積んだ功徳をその場限りのものにせず、あらゆるものへ向けて生かしていこうとする願いであります。
―仏道と慈悲―
『大智度論』に「慈悲は仏道の根本なり」と説かれるように、仏教は慈悲の宗教であります。慈悲とはいつくしみ、あわれみと解され、人に楽を与える「慈」と苦しみを除く「悲」からなる「抜苦与楽(ばっくよらく)」の心です。このことはまさに菩薩の誓願そのものです。
大乗仏教では、慈悲による利他行が重んじられます。利他という言葉を一般には人助けと捉える人もあるでしょう。昨今の度重なる自然災害によって、多くの被災地でボランティア活動が行なわれています。こうした支援も確かに利他の行ないに見えますが、そこに菩薩の誓願がなければ単なる慈善事業に過ぎません。華厳経には「初発心時便成正覚」とありますが、発願は仏道に欠かせないものなのです。
―菩薩の誓願―
では菩薩の誓願とは何かといえば、四弘誓願にほかなりません。さらには、四弘誓願は「衆生無辺誓願度」の一句に集約されると言っても良いでしょう。
私はこの誓願の真価は無辺の衆生に向けられているところだと思います。絶えず誓願成就に努めても果たしきれないということは、実現不可能なものという絶望ではなく、むしろ永遠に願いの力が尽きないという希望なのであります。結果の成就を見ることよりも、願いを持つこと自体が慈悲心そのものであり救いとなっていく。この様な考えには「結果こそが重要だ」という批判もありましょうが、それは西洋的な価値観であります。
例えば教育者の岡潔(おか・きよし)は、「愛と情とは違います。情は心が通い合うのです。愛は自他対立するのです。だから愛を連続的に変えてゆくと憎しみに変わるのです。私たち日本民族は情の民族であることをわすれてはなりません」と言われましたが、ここにいう情は他ならぬ慈悲であります。自他一如の真理の中で、願う心の尊さはそのまま願われる者の清浄心となりましょうし、さらには願う者、願われる者の区別すらないのであります。
―叶わぬ(?)願い―
以前、ある人に危篤の父親の病気平癒祈祷を頼まれたことがありました。共にお経を唱えることしか出来ませんでしたが、その時の彼は夢中になって父親の回復を願いながら手を合わせておりました。後日訪ねて来られたのは父親が亡くなった知らせでしたが、不思議と晴れ晴れした姿が忘れられません。父親の回復を願いながら精一杯の看病ができたことがかけがえのないことだったそうです。お経によって親の病状が変わった訳ではありませんが、願いを込めて祈る心そのものが仏果なのだと痛感したのです。同時にそれは、巡り会う縁に正面から向き合うこととも言えるでしょう。
―誓願から離れる―
この様に誓願を持つことは重要なのですが、日常生活に於いて常に祈り続け誓願を意識し続けるあまり、その願いに執着してはいけません。願い尽くした先には、その願いを持ちつつ忘れていかなければならないのです。そして願いを離れた先には、一瞬一瞬に与えられた縁と真摯に向き合う生活があるのでしょう。
禅門では著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、屙屎送尿(あしそうにょう)(=日常的に行なうことのたとえ)に仏法があるといいますが、それは漫然とした暮らしを指すのではありません。日常生活の何気ない一挙手一投足すらも仏作仏行の仏道となるのは、慈悲心より起こる菩薩の誓願を知り、仏縁を生かそうとするところにあるのです。