念彼観音力――苦境に向き合う力
(出典:書き下ろし)
『観音経普門品偈(世尊偈)』というお経をご存知でしょうか?
元々は『法華経』という経典の中の二十五番目にあたる『観音経』の後半部を抜粋したお経で、臨済宗ではご法事などでよくお勤めされます。名称の通り観音さまの功徳が説かれたお経で、後半に「念彼観音力(ねんぴーかんのんりき)……」という句が繰り返されるので、耳に覚えのある人も多い事かと思います。
その「念彼観音力……」の辺りを訳すと”様々な苦境に陥った時に観音菩薩を信じて一心に「観音力」と念ずれば、観音様が現われてその力を以ってたちどころに苦境から救って下さる”という意味になります。観音さまは広大無辺な大慈悲心をそなえ、機に応じて三十三に身を変えて自由自在に人々を救済してくださる仏さまですから、この解釈は決して間違いではありません。
しかしながら例えば、本当に苦境に立ったときに「観音力」と一心にお唱えし、ただ縋(すが)るだけで果たして良いのでしょうか? 私たちはそれで救われるのでしょうか?
昨今のコロナ禍において、先の見えない不安に襲われるときでも「観音力」とお唱えすれば、その言葉は私たちの心を落ち着かせてくれることはできるでしょう。それでも観音様がその力で直接コロナウイルスを駆逐してくれたり、感染予防してくれるということはちょっと考えにくいと思いませんか? むしろそれならとうにこの事態も収束している筈ですし、実際そうはいきません。どうしてか?
何故なら本来その観音力、苦境に向き合う力を発揮していくことができるのは私たち自身だからです。
作家の平岩弓枝さんという方がNHKラジオ深夜便でこんな話をされました。
「君が本当の壁にぶつかったら、ぼくが幽霊になって出て来てあげよう。現われなかったら、本当の壁にぶつかってはいないのだと心得たまえ」。恩師の長谷川伸先生は亡くなる前にそうおっしゃいました。今も書けなくなると「出てきてくださーい」ってわめくんですけれど、先生は出てきてくださらない。まだ本当の壁ではないと思って、また書き出すの。
亡くなった方が困った時に幽霊になって現われて助けてくれる、なんて都合の良いことは冷静に考えればあり得ない事ですし、平岩さんも頭ではきっとわかっていらっしゃると思うのです。それでも苦境に立った時に人は藁にでも縋りたくなりますし、それはごく自然なことであります。だから、平岩さんも行き詰まった時に亡き恩師に「出てきてくださーい」と叫んで助けを求める。けれども先生が出てきてくれないのなら、ここが本当の壁でないのなら自分の力で乗り越えられるはずだと信じ、今ここにある苦境に向き合う力を発揮されているのだと思います。
こんな慈悲に満ちた遺言を残された長谷川先生は、平岩さんにとってきっと観音さまそのものなのでしょう。
今、世界中で未曾有のパンデミックが広がっております。そして私たちはそれぞれの場所で様々な苦境に立たされております。
それでもいたずらに不安を募らせるのではなく、こんな時だからこそ自分の中の「観音力」を信じ念じて、今ここにある壁に向き合ってゆくのです。観音様は三十三に身を分けられますが、私たちはそれぞれでできることが違います。だからそれぞれの立場で、それぞれの力で、今できることを全うしていけばよいのです。いつか私たちの力で無事にコロナ禍が収束できる日が来ることを願い信じて、まずは念彼観音力。