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身近にある仏法

(出典:『南禅』第122号に掲載されたものを改稿)

 「教外別伝」とあるように仏教、禅の教えは様々な所に込められており、それは皆さんの身近な所、最近の言葉にすら、その要素が入っています。

 『葉隠』の一節をご紹介します。「武士道とは死ぬことと見つけたり」です。有名であるが故に、「目的の為なら死をも厭わない」という間違った解釈をされてしまうことがあります。太平洋戦争中にも、その誤解から特攻や玉砕という悲しい出来事に繋がってしまいました。
 本来、この一節が示す意味は、自己中心の考え方「我」では間違いを起こしてしまう、「我」を捨てる(死ぬ)ことで、自分を含めた全体に良い結果を生むことができる、ということです。最近の言葉では、ラグビーW杯日本代表チームのスローガンであった『ワンチーム』も同じ事を示しています。
 ここに込められている仏教、禅の教えは「諸法無我」です。

 「諸法無我」とは、全てのもの(諸法)は因縁によって生じたものであり、何一つとして独立して存在するもの(我)はない(無)ということです。つまり、自分一人で生きているということはなく、全てのものは互いにご縁で結ばれていて、生かし、生かされているということです。つまり、自分と他人との垣根、境界を無くすことで、苦しみから離れた、安らかな心地になることができると説いているのです。「諸法無我」に気付くことが自他を苦しみから救う方法なのです。
 しかし、「諸法無我」であることを見失えば、「自分さえ良ければ」と、他人を傷つけてしまったり、「自分一人でできる」、「自分が頑張れば良い」と自分の殻に閉じこもり、不安や孤独に苦しんでしまいます。

ren_2009a_link.jpg 以前、熊本震災から復興した阿蘇のある牧場主さんのお話を聴く機会がありました。その方の乳製品は人気で物産展ではあっという間に完売する程で、震災前までは順風満帆でした。しかし震災で道路が寸断し、孤立してしまう状況に陥ってしまいました。幸い、飼料は広い牧草地があり、牛を食べさせることはできました。しかし問題は牛乳を出荷できないことでした。保存しようにもタンクは既に満杯。それでも搾らなければ牛が病気になってしまう。出荷も保存もできず、捨てなければならない悲しみ、牛への罪悪感は非常に辛いものだったそうです。
 災害に遭い、一人の無力さに苦しみ喘いでいた時、共に動いてくれた従業員、「大丈夫ですか? 手助けできることはありますか?」と心配し連絡してくれる友人や業者の方々、変わらず牧草を生やしてくれる大地や、それを食べ牛乳を生み出してくれる牛。自分は決して一人ではなく、多く人や動物、自然との縁を感じることができた。自分と他人との境界線など元から無く、互いに生かし合っている事に改めて気付くことができた。そして共に仕事をする仲間、美味しいと食べてくれるお客の皆さん、恵みを生み出してくれる動物や自然に対し、ただただ有り難いという感謝がこみ上げてきた。その感謝の心、生かし生かされているという思いが、不安や悲しみ、罪悪感で苦しんでいた自分を救ってくれた、と。そして牧場の復興が叶った御礼を述べられていました。

 「諸法無我」であることを見失ってしまうと、物事が上手く進んだ時、うぬぼれ、傲慢になり人を傷つけてしまいます。不安や悩み、苦しみから逃れようとする時、自分一人が救われようとしたり、自分の力のみで解決しようとしては、苦しみから逃れるどころか新たな苦しみを生み出してしまいます。そういった苦しみから誰かを救い、己も救われる為には、「諸法無我」に気づき、己と周りとの境目をなくすことが大切です。身近な所から既にあるご縁に、仏法に気付いて、これからもお互いに生かし、生かされる、皆が菩薩様、仏様であるこの浄土を生きて参りましょう。

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