衆生が病むとき私もまた病む
(出典:書き下ろし)
近年の夏はとても暑く、今はそれに加えてコロナウイルスの影響もあって熱中症や病気にならないかとても心配ですが、この〈病(やまい)〉をテーマにした『維摩経(ゆいまきょう)』という演劇のような経典があります。
主役はお釈迦さまと文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、そして僧侶ではなく大富豪の商人でありながら仏教の奧義に達して菩薩行(ぼさつぎょう:すべての者を覚さとらせようと導く)を実践した維摩居士(ゆいまこじ)という人です。マンゴーの森にいたお釈迦さまは維摩居士が病になっていることを察知して、大勢の弟子や菩薩に「誰かお見舞いに行きなさい」と促しますが、それぞれ維摩居士と問答でやり込められた経験があり誰も行きたがらないので、最終的に文殊菩薩がお見舞いに伺います。
文殊菩薩は維摩居士に会うと「あなたはなぜ病になったのですか? どうすれば治るのですか?」と尋ねます。すると維摩居士は「すべての生きるものは思いこみと執着心(しゅうじゃくしん)によって病む、だから私も病むのです」「菩薩は大悲(憐[あわ]れみ)によって病むのです」「だから衆生の病が滅したとき、私の病は癒(い)えるでしょう」と答えます。私たちは物事を分け隔てて考えてそれに執着するから病い、すなわち苦しんでしまう、その苦しむ衆生を憐れんで菩薩は病になると説くのです。
私ごとですが、今年の一月に小学校時代の友人、村山君から「頼みがある」と連絡があり、「自分がいつ亡くなってもいいように今のうちに君が戒名をつけてくれ」とお願いされました。私が「戒名というのは仏教徒になって菩薩行の実践を誓う証の名だから、〈授戒会(じゅかいえ)〉という儀式をおこなう必要がある」と説明すると是非おこないたいと言ってきました。
二月、早朝なのに蒸し暑いマニラの空港ロビーを出ると、三十年間のフィリピン生活で現地の人と見分けがつかないくらい浅黒くなった、けれども子どもの頃の面影が残る村山君が待っていました。
授戒会は彼の家の庭にある大きなマンゴーの木の下でおこないました。彼も私も汗だくになりながら何度も礼拝し、懺悔文(ざんげもん)・三帰依文(さんきえもん)を唱え、戒めを持(たも)って菩薩行を実践すると誓い、戒名を授けて授戒会は無事に終わりました。ところが次の日の朝、私は日本に帰国する日なのに暑さのせいか体調が悪く、起き上がれなくなってしまい、彼にそのことを伝えるとすぐに知人に頼んで救急病院を手配してくれました。
病院のベッドで横になって抗生物質の入った点滴を受ける私に「申し訳ない」と謝る彼を見たとき、この私が今感じているしんどさは彼の今までの人生の苦しみだったんだと気がつき、「これでいいんだよ」と答えました。
夏の暑さは苦手です。しかし今、汗がぽたぽた落ちるとき、マニラの地で村山君もまた一緒に汗を流していると思うと、涼やかな風がこころを吹き抜けていくのです。
みなが病むとき私もまた病み
みなが癒えるとき私もまた癒える