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四十二章経の教えシリーズ〔10〕

(出典:書き下ろし)

ren_2008b_link.jpg 各地に被害を齎した長雨の降り続く中、先の見えないウィルス禍の不安のように薄暗い空の下で、今年も見事に育った庭の桔梗が、青・白・ピンク・八重と、とりどりに花を咲かせています。種から育てて地植えした苗は、春先からぐんぐんと伸びて、年毎に丈高く茎太く、色づきも今年はまた一段と濃く鮮やかです。外出控えでいつにもまして静かな境内に、桔梗の花は、時折来られるお参りや来訪者の目を喜ばせ、「新たな日常」の心許なさをそっと和らげてもくれているようです。
 この一年、土の下にしっかりと根を張り、養分を蓄えた桔梗の株。その花の清々しさに心惹かれながら、それにしても、とあらためて感じます。それにしても、この庭土の下でどんなに豊かなドラマが繰り広げられたのか。地下の暗さと静かさの中で、どれだけ豊かな蠢きがあって、こんなに鮮やかに桔梗の花を咲かせたのか。土は日に焼かれ、風に吹かれ、雨に打たれ、時には雪に覆われ、人にも踏まれます。良いも悪いも好きも嫌いもキレイも汚いもなく、選ぶことなく一切を載せて、また一切を受け入れて、生命を慈しむ大地。それはお釈迦様の説かれる修行者の心、仏の心にも似ていると感じます。
 四十二章経は、禅宗で初心者の教育に広く活用されて来た、文字通り四十二章から成るお経です。その中で、忍辱(にんにく)と慈悲は特に大切な徳目とされています。「慈悲忍辱」と一句で使う用例もあるように、これらはセットで理解する、いやむしろ、同時に実践されるものとして理解することが大切だと感じます。
 例えば第六章、お釈迦さまは譬え話を用いて次のように説かれます。

 私に危害を加えようとする人がいても、私は慈悲の心で彼を迎える。わざわざやって来て私を罵るようなことがあっても、私は黙って何も答えず相手にせず、かえってその人をあわれみの心で見る。そして暫らくして相手が落ち着いて罵ることをやめたのを見て、次のように問いかけるだろう。「あなたが贈り物をもってある家を訪ねたところ、その相手が贈り物をうけとらなかったら、あなたはその贈り物をどうしますか。――持って帰るより仕方がないでしょう。――今、あなたは私を罵りましたが、私はそれを受け取りません。それをあなたが持ち帰って、あなた自身に浴びせなければならないのです」と。

 お釈迦様のように、相手を教え導くところまではなかなかいかないかもしれませんが、理不尽で不愉快な相手の言動に心動かされず、怒らずに聞き納めて、思い返しも怨みもしない、それだけでも理想的な対応です。その上でもし、そういう言動をとらずにおかない相手の心の悩ましさや身の上にまで、思いを巡らせ、心を配れるなら、それはもう申し分のないことでしょう。このように自己の心を抑える忍耐力のことを、仏教では忍辱と呼び、他者の心の悩ましさや苦しみが軽減するよう願う心を、慈悲と呼びます。上の譬えで言えば、思いやる心があるからこそ、相手を蔑むことなく、静かに聞くことができるのでしょう。と同時に、堪え忍ぶ強さがあるからこそ、相手の心を理解する優しさを持てる、とも言えるのでしょう。

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらう

(吉野弘「生命は」抜粋)

 自然の動植物と違い、私たち人間は、自己の生命の不完全さを忘れがちなのかもしれません。本来的に欠如を抱き、自己完結することのできない自分を忘れて、思い通りに自分の望みを成就できない苛立ちに、地団駄踏んで悔しがる。自分自身には欠如し、出会いによってこそ満たされるべきものを、自分の思いのままに満たそうとして果たせず、怒り、悩み、苦しんでしまう。自己実現も主体性も、本当は無数のご縁で支えられていることに気がつけば、抱きしめる欠如はご縁によって満たされ、そこから感謝の思いが溢れてくるのでしょう。
 清々しい感謝のような桔梗の花。慈悲忍辱を具現する土。逸早い災害復旧と感染収束を切に祈りつつ、憧れと反省の心でひととき、眺め入るこの頃です。

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