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病と向き合う、人と向き合う

(出典:書き下ろし)

ren_2007a_link.jpg コロナと言えば、太陽や暖房機メーカーではなく、ウイルスのことになってしまった昨今、私たちは這う這うの体でウイルスに対処を迫られています。対処の一環として、うちのお寺でも年中行事は一切やめ、お葬式も可能な限り規模を縮小して挙行している状態です。
 それは一見ウイルスの対処をしているようで、実はそうではないのではないか、と最近思うようになりました。私たちはそこで何かを見落としているではないだろうかと。

 「病」という字の中に「人」という字があるのが見えるでしょうか? また「災」という字にも「人」が見えます。結局手が付けられないような病や災でも、人がそうしているのです。
 肺炎という病をもたらすコロナウイルス、一見すると私たちが向き合わなければならないのはウイルスと見られがちですが、本当は、これは人同士の向き合い方の問題ではないかと思います。
 人同士の問題であることに気づいていないから、医療物資や食料の買い占め、感染が少ない地域への不必要な渡航など、我が身さえよければいいという行ないが後を絶たない。

 『臨済録』には「若し意有らば自救不了(じぐふりょう)」という言葉があります。「自救不了」とは自分の救いさえも全うできない、という意味です。
 全うできない条件として付けられているのが「若し意有らば」という一節です。「意」というのは意識のこと。私たちがあれこれ思いを巡らせてそれにとらわれることです。人と向き合わず自分しか見ていない、自分さえよければという思いは十分すぎるとらわれです。
 そんな意識をもって行動することは、それが買い占めや不必要な渡航のような明らかに害悪とされる行為だけでなく、医療行為やボランティアなどの社会福祉のような人助けとされるような行為も、意識にとらわれては本当の意味での人助けにならない。人どころか自分さえも救えないことを臨済禅師は教えてくれているのではないでしょうか。

 近年でいえばこのコロナウイルスの世界的蔓延は未曽有の災害ですが、歴史を紐解けば日本には大きな災難が降りかかった時期が多くあります。そんな時、先人達はどうしたか?
 今から約800年前の鎌倉時代、源氏と平家の内乱により国土が荒廃し、特に京には困窮した民衆が多くいました。そんな中、建仁寺の栄西禅師に救いを求めて一人の困窮した男が訪れました。
 市中にはそもそも物はなく、当然禅師の手元にも何もありません。ふと薬師如来の像をつくる材料として、大切に取っておいた銅の延べ金があることに、禅師は気が付きました。禅師は男に、その延べ金を売り食物に変え餓えをしのぐよう言いました。そのことを知った弟子たちは嘆き、仏に捧げたものを自分勝手に使ったという罪になりはしないか、と禅師を責め立てました。
 禅師は「まことにその通りだ。しかし仏の御心を察してみると、仏は求められればその全身をも衆生に施されるに違いない。また、御仏のものを勝手に使った罪で、たとえ私が悪道に堕ちるとも、ただ餓える衆生は救わなければならない」と答えたといいます。
 弟子たちが堕ちこんだように、仏像を建立するといった崇高な意識をもっていても、人と向き合わないなら、今餓えている、困っている人々は救えないのです。対して何の躊躇もなく延べ金を差し出した栄西禅師。
 私たちもこの弟子たちのような、意識にとらわれていないでしょうか? それによって本来向き合うべき人と向き合うことを忘れてはいないでしょうか?
 最も近しく、最初に向き合うべき人は、何といっても自分自身です。まず自分自身と向き合うことからコロナウイルスの対処は始まるのです。それが自分を救い、周りの人々も救うことにつながるのです。

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