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四十二章経の教えシリーズ〔8〕

(出典:書き下ろし)

 私たち仏教徒が日常生活において、実践すべき行ないの基本として、『四十二章経』の第三章には、善悪を基準として説かれてあります。
 この経典には、人々の為すところの善悪として、十の善と十の悪を採り上げております。その「十」とは、身体に関して三つ、言葉に関して四つ、心構えに関して三つの十項目であります。
 身体に関する三つとは、殺す、盗む、淫らな性的行為、の三つであり、言葉に関する四つとは、二枚舌、悪口、嘘、お世辞の四つ。心構えに関する三つとは、嫉み、怒り、愚かさの三つであります(普通には「嫉み」ではなく、「貪り」と説かれたもの)。
 仏教では行ないのことを「業(ごう)」と言い、善い行ないを善業(ぜんごう)、悪い行ないを悪業(あくごう)と言います。ここで十の悪業とは、すべて仏の教えに反するような行ないで、十悪業(じゅうあくごう)と言われます。この十の行ないをすれば十悪業で、これをしないことが善であります。

ren_2006a_link.jpg さて、今回は十悪業の一つである「悪口(あっく)」について述べようと思います。ふつう悪口は、他人の悪口を言うことですが、礼を失した乱暴な言葉や、相手を口汚く罵ることもまた悪口であります。
 昔から「口は禍(わざわ)いの門」と言われます。うっかり余計なことを言ったために、言われた人はもとより、周りの人々にも不快感を与えてしまうので、お互いに慎まなければなりません。
 刃物で傷つけられた傷は、治れば痛くない。しかし、言葉で傷つけられた傷は、思い出すたびに心が疼くと言われます。
 例えば、現代社会で大きな問題となっている差別的発言などは、悪口の典型的な例と言えましょう。たとえ無意識に発した言葉でも、言われた相手にとっては、大きな傷を与えられてしまうからです。
 このように、ひとつの言葉で相手の気分を害することもあれば、また逆に、相手を柔和にさせるような言葉もあります。誰かの語に、

この唇よ 今日もまた 善きことを語れ 悪しきを言うな

とあります。これが仏の説かれた「愛語」であります。

 あるお婆さん。土地に不案内とみえて、バスが停まるたびに、「運転手さん、ここは何処?」と訊ねます。そこで運転手が、「お婆さん、着いたら知らせてあげますから、安心して乗っていてください」と親切に言いました。これこそ、お婆さんの心を和やかにさせる愛語と言うべきであります。その上、この一言でバスの乗客の皆さんの心も和んだことでしょう。
 悪口は口の悪業ですが、善いハタラキをすればこのように善業になるのです。

たった一言が、人の心を傷つける。
たった一言が、人の心を温める。

という語はこのことをよく示していると思います。たとえば「一つの言葉」と題する次のような標語があります。

一つの言葉でけんかして
一つの言葉で仲なおり
一つの言葉でおじぎして
一つの言葉で泣かされた
一つの言葉はそれぞれに
一つの心を持っている

 みんなひとつの言葉です。言葉というものがいかに大切なものであるか、ということでしょう。

 明治時代に鎌倉円覚寺の管長さまであった釋宗演老師は、人の悪口や短所を語るものがあると、巧みに話題を変えられたそうです。その反面、人を褒める話になると、心からその人を讃えられたと言われています。
 口の業というものは、ものの言い方そのものです。口を「禍いの門」とするのではなく、自らが生活のなかで言葉を慎むことに心掛け、この口を「幸せの門」にせねばなりません。善悪は人にあらず、自らの心にある、と言われるゆえんでありましょう。

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