四十二章経の教えシリーズ〔7〕
(出典:書き下ろし)
元プロ野球選手のイチロー選手は現役時代、自宅にいるときに毎朝カレーを食べていたことはよく知られています。では1年の半分近い、地方遠征中はどうしていたのでしょうか。
料理評論家の山本益博氏によると、なるべく同じお店の「チーズピザ」ばかり食べていたのだそうです。理由は、「どこのホームグラウンドにもある」「味が一定している」「人がすり寄って来ない」からだとか。「カレー」や「チーズピザ」が特に好きだったとか、「験担(げんかつ)ぎ」からではなく、あえて同じ物を食べるようにしていたというのです。
お坊さんからすると、これはまるで修行道場の生活に近いように感じられます。修行道場の献立は毎朝のお粥からはじまり、昼と夜は麦飯と味噌汁が原則となります。これに毎月特定の日は饂飩(うどん)というように一定の法則で決められた同じような物ばかり食べているのです。
私が修行僧の頃は「もっと美味しいものを食べたい」など余計な欲を起こさないように、そのような規則になっているのだとばかり思っていましたが、前述の山本氏の記事を読んで、少し考えが変わりました。
常に「平常心」を大切にしていたイチロー選手に、山本氏がそのことについて質問すると、「守備でも打席でも、いつも同じところを見て、見ている自分がいつもと同じ気持ちかどうか確かめている」と話してくれたそうです。相手チームの情報やデータ、または自分のチームの状況など自分周辺のことよりも、自分自身に細心の注意を払っていたというのです。
これもお坊さんからすると、毎日同じように坐禅をして自分の心と向き合っているのと同じような話ではないでしょうか。仏教では世の中のものは全て絶えず変化しているという「諸行無常」ということが説かれます。自分以外の外に向かって目を向けがちですが、自分自身も例外ではありません。他ならぬ自分の「ココロ」と「カラダ」も常に変化しているのです。
自分自身の変化を度外視して、自分を価値基準の中心に置いて生きていくことも1つの生き方ではあります。でもイチロー選手のように、自分自身が常に変化することを前提として、逆に周りのものを使って自分を常に一定の「平常」に保つよう心がける「自分を信じない生き方」というのもひとつの生き方ではないでしょうか。
『四十二章経』の「第二十六章」に次のような言葉があります。
釈尊は次のように修行者たちに説かれた。
自分のこころ(意)を信じてはいけない。こころは信じられないものである。愛欲の対象となるものを見て、淫らな情欲を起こしてはならない。淫らな情欲を起こしたら、たちまち禍(わざわい)が生じることになる。最高の悟りを得た阿羅漢(あらかん)の位に達したら、はじめて自分のこころを信じることができる。
『ブッダになる道–『四十二章経』を読む』服部育郞
ここでは情欲ということを中心に、「自分の心を信じてはいけない」ことが説かれています。情欲とは感情の動きや心に起こる世俗的、刹那的な欲望のことですが、仏教語としては「物事をむさぼり、執着する欲望」という意味があります。
一般的には、同じものばかり食べていることが「執着」と考えかちですが、逆に食べ物を固定することによって自分の「ココロ」や「カラダ」の変化を見つめていく。今まで私にはなかった考えをイチロー選手のエピソードから学ばせていただきました。
自信を持って生きることは大切なことですが、あまり過信は禁物です。自分のこころが本当に信じられるのは、阿羅漢という悟りを開いたお坊さんのような達人の域に達して、はじめて信じることができることだと『四十二章経』は説いています。
コロナウィルスの影響で外出自粛が続く中で、「同じ物ばかり食べていて飽きる」という方も多いことでしょう。でもそれは食べ物に問題があるのではなくて、変わっているのは私の「ココロ」なのかもしれません。