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四十二章経の教えシリーズ〔2〕

(出典:書き下ろし)

ren_2002a_link.jpg 二月三日は、邪気を払い一年の無病息災を願う節分です。鬼は外、福は内と、豆撒きをして、その豆を歳の数だけ食べ、厄を除け福を招きます。鬼を追い出し、福を呼び込む。
 さて、この節分を鬼の立場で考えてみたら、どうでしょうか。鬼は鬼の本分を全うしているだけ。ちょっと人間と相入れないところがあるだけ。逆に鬼からしてみれば人間こそが鬼、桃太郎こそが鬼なのです。

 ゴキブリという昆虫がいます。何の気なしにヒョイと顔を出してみたら。チョイと散歩に出てみたら。悲鳴とともに叩き潰される。不憫以外に言葉がありません。
 一人暮らしをしていたとき、よくゴキブリが出てきたものです。当時、そんな話をすると友人から、「ゴキブリが出ないようにしなきゃね」、そう言われました。ゴキブリが出ないように、鬼が出ないように、丁寧な生活を心がけること。ある意味で、これが真理かも知れません。

 お釈迦さまがいらっしゃった時代より遥か遠い昔、迦葉仏(かしょうぶつ)という仏さまがいらっしゃいました。その仏さまは、このようなお言葉を遺されています。

欲が生じるもとは、こころであるということを私は知った。
こころのはたらきは、思いと想像から生まれる。
私が思ったり想像したりしなければ、欲は生まれることはない。

(『四十二章経』より)

 自分勝手で妄りな思いや想像、ことさらな期待や選り好み。それが欲のもとであり、苦しみのもとなのです。妙な考えや、よこしまな心を正せば、欲に苛まれることもないのかも知れません。
 鬼が心に入り込まないように、誤った判断や行動のないように。坐禅で心を調えたり、普段の生活を見つめ直したりと、そんな生き方に努めることも一つの手段でしょう。節分とは、改めて心を修める覚悟や信念を培う、大切な節目の日なのです。

 しかし、そのように努めていても、見たくないものはヒョイとチョイと現れてくるものです。念仏詩人と呼ばれた浅田正作さんという方が、「節分」という詩を遺されています。

福はうち
鬼はそと
待ってください
待ってください
その二人は
絶対別れられないのです
その豆は
福だけを欲しがる
この私に投げてください

(『骨道を行く』より)

 欲してばかり、たがってばかり。それでいて、臭い物には蓋をするような、見て見ないふりをするような、独り善がりで一時しのぎに取り繕って放ったらかしの生き方を戒めるような詩です。

 生きていれば色んなことがあります。福と鬼。楽と苦。良いことと悪いこと。これらは、背中合わせの表裏にそこにあるものです。私の幸せが、相手の不幸せになることだってあります。逆も然りです。

 幸も不幸も両の手でしっかりと頂くこと、ままならない人生をしっかりと頂くこと。禅や仏教とは、そんな心を養う宗教です。
 良いことばかりを追い求めてしまう。あるいはついつい魔が差してしまう。そして欲をかいて自らを苦しめてしまうのが人間です。思いに任せぬ不自由なのが人の道です。そんな、ままならない人生を頂く姿、それが合掌ではないでしょうか。

 求めすぎて失敗したなら、謙虚な反省の合掌。
 どうしようもない苦しみには、真摯な祈りの合掌。
 思いがけない幸福に出会えば、素直な感謝の合掌。

 頂き難いものを頂いて生きていく、生かされていく。鬼も福も、有り難く頂く。そんな合掌ができた時、私たちは仏さまに成れるのではないでしょうか。

人のため 身を惜しまぬは 仏なり 楽をしたがる もとはこれ鬼

(道歌)

 春はもうすぐそこ、皆さま方のさらなるご精進を祈念申し上げます。

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