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ノーサイドと怨親平等

(出典:書き下ろし)

1912a.jpg 本年は第9回目となるラグビーワールドカップが日本で開催されました。テレビで中継されたこともあってご覧になった方も多いのではないでしょうか。私は、今までラグビーのルールすら知らなかったのですが、テレビで観戦するうちにすっかり即席のラグビーファンとなってしまいました。試合の解説がとても丁寧で分かりやすかったのですが、なかでも興味深く感じられたのはノーサイドという言葉でした。

 ノーサイドとはラグビーの用語で試合終了のことです。現在では、あまり使われなくなった古い表現とのことですが、試合が終われば敵の側(サイド)も味方の側(サイド)もない(ノー)というところから試合終了を意味するようになったようです。ラグビーは接触プレーも多い、集団格闘技のようなスポーツではありますが、熱くなりやすい競技であるからこそ、紳士的な精神を大切にしているのではないかと思います。

 このノーサイドという言葉を聞いて私の脳裏をよぎったのは、仏教の怨親平等(おんしんびょうどう)という言葉でした。怨親平等とは『禅学大辞典』には、

怨憎する人々に対しても、親愛する人々に対しても、差別することなく、慈悲愛護の念をもって接すること

と記載されています。怨(うら)みや憎しみの対象となる「敵」であっても、親しみや愛情の対象となる「味方」であっても、仏教の根本精神である慈悲の心、仏様の眼から見ればどちらも平等にいつくしみ憐(あわ)れむべきであるというのです。対立や争いの絶えない現実を目の前にする時、絶望的と思われるかもしれませんが、最終的に目指すべき到達点は怨親平等であると仏教はいうのです。

 怨親平等の精神を具現化した一例として、鎌倉に円覚寺という臨済宗のご本山がございます。円覚寺は弘安5年(1282)に鎌倉幕府の執権であった北条時宗が、中国・宋より招いた無学祖元禅師によって開山されました。国家鎮護や禅の教えを広めるだけでなく、蒙古襲来によって亡くなった人々を、敵味方の区別なく平等に弔うために建立されたお寺です。

 戦争という不幸な出来事によって亡くなった人々に、もともと敵味方の区別はありません。立場の相異はあるにしても、一つしかない命を失ったことに違いはないのです。私たちは敵味方というお互いを分ける立場にばかり執着をしていると大切なものを見失ってしまいかねません。この「分ける」ということに関して鈴木大拙は次のような指摘をしています。

分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。すなわち、力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。高い山が自分の面前に突っ立っている、そうすると、その山に登りたいとの気が動く。いろいろと工夫して、その絶頂をきわめる。そうすると、山を征服したという。〔中略〕この征服欲が力、すなわち各種のインペリアリズム(侵略主義)の実現となる。

(『新編 東洋的な見方』岩波文庫)

 大拙はこの「分けて」考えることを基底にもつ西洋の思想を必ずしも否定しているわけではありませんが、長所も短所も含めて検討してみる必要があるのではないでしょうか。ラグビーは西洋発祥のスポーツではありますが、ノーサイドという言葉から東洋的な叡智、仏教の智慧を感じた次第です。

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