釈宗演禅師のこころシリーズ〔17〕
(出典:書き下ろし)
心より やがてこころに 伝ふれば さく花となり 鳴く鳥となる
(『楞伽窟歌集』より)
大意:大切な教えを人から人へ、心から心へと伝えていけば、それは必ず花となって咲くだろう、鳴く鳥となって現われるだろう
(横田南嶺(2015)『禅の名僧に学ぶ生き方の智慧』より)
釈宗演禅師(1860~1919)は明治、大正期の禅僧で円覚寺派管長、建長寺派管長を歴任され、その後はアメリカに禅の教えを伝えるための活動に尽力された方として知られています。冒頭の句は釈宗演禅師の残された有名な和歌で、禅師が「伝える」ということをどのようにとらえていたのかが垣間見える一句であると言えるでしょう。「大切な教え」とは端的に言えば禅の悟りの境地ということですが、これの持つ一面をわかりやすく言い換えるならば、「あらゆるものの有り難さを有り難く受け取ることのできる心」ではないかと私は思っています。花が咲くことも鳥が鳴くことも一見特別なことではありませんが、その特別でないことの中に有り難さを見い出せるとき、私たちのこころは調っていると言うのだと思います。花は無心に咲き、鳥は無心に鳴いている。その日常の風景に目を向けて改めて気付くことは実はたくさんあるのです。
報恩寺では現在数名の檀家さんとともに御詠歌をしております。御詠歌とは仏教の教えを旋律に乗せて唱える歌のことです。報恩寺の御詠歌会は私が先住職である祖父より報恩寺の住職を引き継ぐまで、講員さんの高齢化、減少等の影響により休会状態にありました。私が住職を引き継いだ6年前にいい機会だからということで檀家さんの方から声をかけていただき、新しい講員さんをお迎えして報恩寺御詠歌会を再開することができました。新しい講員さんと言ってもその多くが親の世代から御詠歌を続けてくださっており、かつてお姑さんが使っていたお道具を今度はお嫁さんたちが使ってお稽古に励んでくださっております。
御詠歌を再開する中で一つ感心させられたお話があります。とある講員さんが御詠歌を始めるということでかつてお姑さんが使っていた御詠歌のお道具を出してくると、お道具と一緒に書き込みだらけの古い御詠歌の楽譜が出てきたそうです。ああ、おばあさんもこうやって御詠歌のお稽古をしたのだなと思いがけず先人の努力の跡、そしてこれから自分が始める御詠歌というものが果たしてきた役割を知るきっかけになったと聞きました。
お姑さんは決してお嫁さんに教えを伝えるために楽譜に書き込みを入れたわけではありません。自分自身の研鑚のために一所懸命にしていたことです。しかし、その「無心の努力の跡」は確かに教えとなってお嫁さんの心に受け継がれています。その有り難さを受け取れるようにお嫁さんの心が調えられていたというのもとても素晴らしいことだと思いました。
「大切な教えを伝える」ことに、決まった形や作法があるわけではありません。しかし、その有り難さは私たちの生活の中のふとした瞬間にあるものです。あとは、私たちの心が大切な教えを有り難く頂戴できるように普段の生活の中からこころを調えていくということが重要です。これを私たちは「修行」と呼ぶのです。当たり前で平凡な生活の中にでも有り難い気付きはたくさんあるはずです。その一つ一つに目を向けていく、気付いていく努力をすることが私たちが明日からの一日をよりよく生きるための方法の一つであると私は信じています。