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大用国師のこころシリーズ〔10〕

(出典:書き下ろし)

 本年、二百年大遠諱を迎えた大用国師『誠拙禅師歌集』に、「西山善峯寺にて」と題する歌があります。

よしあしの こころたえても 救ふらん

かきりなき世に かきりなき人

 これは六祖慧能と明上座(みょうじょうざ)との問答を意識してのことと思われます。達磨大師から数えて6代目の法を嗣いだ慧能ですが、師匠は他の弟子達に妬まれることを心配して、深夜こっそりと寺から逃がします。ところが明上座という兄弟子が追いついて伝法の証しである衣鉢(えはつ)を返すよう迫りました。
 慧能は「好きにしろ」といって衣鉢を石の上に置きますが、なぜか明上座は受け取りません。衣鉢が伝法の「象徴」であって、法そのものではないことに気がついたからです。そこで慧能は明上座に対し、「不思善、不思悪、お前の生来の本性は何か」と問いかけました。
 不思善、不思悪とは善にも悪にも囚われないという意味です。私たちは普段、好きと嫌い、利と害、優と劣、長と短など、物事を2つに分けて考えています。これを分別心といいます。一般的に「分別がある」というのは、善悪の判断や物事の道理がわかるといった良い意味で使われる言葉ですが、禅では「無分別」ということが言われます。
 物事を分けて考える時、その基準はいったい何でしょうか。自分の経験や価値観、世間の常識、社会のルールなど様々な基準が考えられますが、それらが不要だというわけではありません。そういったものに執着しすぎると、迷いや悩み、苦しみを生じて私たちに本来そなわっている純粋な心、仏さまの心を覆い隠してしまうということではないでしょうか。

 先日、新聞に「日本で最も○○が少ない町」という見出しの記事がありました。「何の話だろう」と思って記事を読んでみると、この記事は統計数理研究所の岡檀(おか まゆみ)先生が、日本で最も自殺が少ないとされる徳島県海部(かいべ)町(現:海陽町)を調査・研究された内容が紹介されている記事でした。つまり「○○」に入る文字は「自殺」だったのです。
 岡先生は海部町が他の地域と何が違うのかを調査した結果、海部町にはいくつかの特徴があることがわかりました。そのなかの1つとして海部町には知的・身体的障がい児をサポートする「特別支援学級」がないことがあげられていました。
1909a.jpg かつて海部町の近隣でも、こういったものを作ろうという話がでた時、海部町だけが反対しました。その理由は「いろんな人がいたほうがいい」だったそうです。海部町の人たちは「人とちょっと違うからといって、その人を違う枠で囲ってしまうのはどうも気にかかる。それより、小さい頃から『世の中にはいろんな人がいる』ということをクラスの中で体験しておいたほうがよっぽどいい」と考えたからなのです。
 岡先生によると、海部町の自殺率の低さは、自殺を予防した結果ではなく、「どうやったら自分たちがこの町で気持ちよく生きていけるのか」を考えながら生きてきた結果ではないかとのことでした。これこそ分けて考えない「無分別」の心なのではないでしょうか。

 大用国師の歌にあるように、限りなき世の中に、限りない人たちを救っていこうという仏さまの願いには、善悪など分別の心ではなく無分別の心、仏さまの心でもってこそ救っていけるのではないでしょうか。そこにはもはや「救う者」と「救われる者」という分別すらないのかもしれません。

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