蒔かぬ種は生えぬ
(出典:書き下ろし)
私が小学2年の時、先々代である祖父と一緒に町内のお盆の棚経に廻ることを勧め、私の為に衣を縫ってくれた祖母。その祖母が昨年102歳の天寿を全うしました。
それに合わせて、ある古くなった座布団を処分しようとしたところ、祖母の実の娘である母がこれだけは捨てたくないと言うのです。いつも見慣れていた座布団でしたが、よく見てみると隅っこに先々代の字で小さく、「寒行記念 昭和三十一年度」の文字が記入されていることに私自身初めて気がつきました。先々代が托鉢を行ない、その頂いた喜捨(浄財)で祖母が縫い上げたものでした。
祖母が生まれたのは、大正5年、日本統治下にあった朝鮮においてでした。資産家であり事業のため家族で朝鮮に渡った祖母の父は妙心寺別院が建立されるにあたり寄進を行ない、祖母は古川大航老師(後の妙心寺派管長)の命により赴任していた祖父とその時に知り合い、結婚をして、しばらく朝鮮に暮らしました。終戦となり、二人の娘を連れて命からがら朝鮮より引き揚げて、生まれて初めて日本の地を踏んだ祖母たちは、当初沼津の寺院で暮らしましたが、いま私が住職をしています寺の住職〈当時〉が遷化(逝去)されたのを機に、昭和28年に入寺いたしました。当時、私どものお寺には湯飲み茶碗一つですらもなかったそうです。
また、祖母は先々代と花園流御詠歌の普及に努めました。その当時、私どものお寺のある地域では、別の流派の御詠歌がすでに流布していたそうで、祖母たちが就寝中、ある者がいきなり押し込んできて、「花園流御詠歌など辞めろ!!」と言って、寝ていた布団をはぎ取られるといった、嫌がらせを受けたこともあったそうです。さらに、後に会員となってくださる何人かは祖母よりも歳上の方が多く、年長者の意見が尊重される田舎にあって、花園流御詠歌の普及には大変な苦労があったようです。
しかし、祖母たちは、「花園流御詠歌は良いものだ」と普及に努めました。その努力が実を結び、平成17年には私どもの支部である花園会女性部の会員数は100名を超え、今や大幅に人数は減ったものの、各支部が解散をしていく中、それでも約60名の会員数を誇っています。お寺も湯呑み茶碗はもとより、仏具が充実し、檀家様の数も先々代たちが入寺した当時の3倍にまで増加しました。今あるのは、先々代たちが、しっかりと種を蒔いてきたからです。それだけではありません。私の娘二人が幼きときより御詠歌を習い、昨年には本山で得度を受け、二人の和尚様たちと一緒に町内の棚経を廻り始めました。新しい芽が育ち始め、祖母はそれらを見届けて逝きました。
何を始めるにも困難はつきものです。困難の度に諦めては、物事は進みません。今後、私が護寺をする上でも困難と感じることは幾度となくあると思います。しかし、先々代たちの思いの詰まった座布団を見る時、その困難は大したものではなくなるでしょう。