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大用国師のこころシリーズ〔8〕

(出典:書き下ろし)

 1907b.jpg鎌倉の円覚寺は、弘安5年(1282年)8代執権北条時宗公が南宋杭州から招聘した仏光国師(無学祖元禅師)を開山として創建されました。父時頼公と共に参禅した建長寺開山大覚禅師(蘭渓道隆禅師)が亡くなった後、新しい参禅の師として招かれたのが仏光国師です。時宗公は一心に仏光国師に師事し、それにより元寇(弘安の役)という国難に立ち向かい、みごと勝利したのです。その時の教えは「莫煩悩(まくぼんのう)」(妄想する事なかれ)でした。不安や恐怖に怯えうろたえるのは、妄想や煩悩に振り回される事であり、それを断ち切るためには、敵の襲来という現実を直視して国難に当たれ、という教えでありました。

 江戸時代後期、円覚寺中興の祖と称された方が大用国師(誠拙周樗禅師)(だいゆうこくし・せいせつしゅうちょぜんじ)です。本年が大用国師の200年大遠忌に正当いたします。四国宇和島の出身で藩主伊達家菩提寺の霊印不昧和尚の元で出家しました。その後歴参を重ね、20歳の時、武蔵国永田宝林寺の月船禅慧禅師に参じ修行され、その法を嗣がれました。
 師が27歳の時、月船禅師の命により円覚寺に入られ、疲弊していた修行道場を10年かけて再興され、その務めを果たされました。その後諸堂を新築され、1785年には、開山仏光国師の500年大遠諱を厳修されたのでした。64歳で席を譲り伝宗庵に隠棲されたのですが、京都の相国寺に招かれ、更には天龍寺に招かれ、修行僧の指導にあたりました。その後1819年、再び相国寺に入り禅堂を開きますが、翌年、病のため亡くなります。大用国師はまさに一生をかけて、修行道場の再興に尽力されたのでした。

 大用国師の逸話があります。ある時山門の普請にあたり、一人でも多くの人達に仏縁を分かち合いたいとの思いで、広く一般から寄進を募ることとなりました。ある日、江戸蔵前の札差を営む梅津伝兵衛という商人が円覚寺を訪れ、大用国師に面会し五百両の寄進を申し込んだところ、「ああさようか」と言ったきりでお礼の一言もありません。不満に思った伝兵衛は「この五百両という大金を寄進するのに、お礼の一言も無いのはいかがなものか」と文句を言います。すると大用国師は「寄進とは他人の為にすることではなく、自分の為に福田を植えること、そして自分が積んだ功徳はみな自分のところに還っていく、それなのになぜわしが礼を言わねばならん」と窘められたのです。誰にも知られず功徳を積むことが大事である、という教えです。

佛曰く、吾が法は無念の念を念とし、無行の行を行とし、無言の言を言とし、無修の修を修とす。

(『佛説四十二章経』)

 釈尊は、何事も心を集中し、直向きに行ずる”一心一向”であれ、と示されています。自分は修行したとか、修行したから功徳を積んだとか、分別妄想によってそれを口に出してはならない、というお言葉です。
 大用国師は正に”一心一向”に修行され、仏法により人の為に尽くすという事を生涯の務めとし、その願いに生きてこられた方でありました。今、その御徳を偲んで参りたいと思います。

よしあしの こころたえても 救ふらん
          かきりなき世に かきりなき人

(『誠拙禅師歌集』)

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