願いのこころ
(出典:書き下ろし)
毎年7月7日、七夕の日には、子供たちが短冊に願い事を書き込み、竹の笹に楽しそうに結んでいます。長男の昨年の願い事は、「おじいちゃんとおばあちゃんが長生きしますように!」でした。今年はどんな願い事にするのかと尋ねると「昨年と同じ」とのことでした。実に子供らしく、祖父祖母は泣いて喜ぶ願い事だなぁと心がほのぼのとし、また私自身もその願いが叶うといいなぁと思った次第です。
この「願い」というところですが、実は禅宗では非常に大事な心となっております。この願いを根底に置いたお経に「四弘誓願」があり、自坊でも朝課や法事などお参りの度ごとにお唱えしており、一度は読んだり聞いたりされたことがある方も多いのではないかと思います。
では、「願いが大事だ」とはいうけれど、その具体的な願いとは一体なんなのでしょうか。これを簡単にいうと「みんな(=自分を含めた全ての生きとし生きるもの)が幸せでありますように」ということです。実はこの願いこそが我々修行僧、また在家信者の皆様方全てが共通して、日常を生きていく中で心の底に持っておかなければならない大事な心なのです。そしてこの心こそ、相手のことを常に慈しみ、その悲しみや苦しみを同じ目線で同調していける仏教の大事な心である「慈悲心」に繋がってくるのです。
しかし、我々が何かを願う時、利己的な願いも多く、それが「叶う」とか「叶わない」とか結果・結論を求めることが多いかと思います。例えば、子供が願った「祖父母が長生きしますように」という時、長生きすれば「良かった」となるが、そうでなかった時、「あぁ、願って損した…」とか、「結局願い事をしたって無駄だ…」など悲観的になってしまいます。こうなっては折角の願いが結果次第で意味をなさなくなってしまい、願いの芽を摘んでしまいます。
また、願いに対して「慈悲心から出る願いは良くて、利己的な願いは悪い」という考え方もあります。利己的な願いとは、「あれが欲しい、こうしたい」など、煩悩とも言える願いのことです。しかし私は、たとえ利己的な願いであっても、それが結果的に自分や周りの方々が幸せになることに繋がるのであれば、願いに良いも悪いもないのだと思います。だからこそ、願いそのものに無限の可能性を見出せるのです。
ですから、願いが叶うとか叶わないとか、良し悪しやという未来のことは一端置いておいて、この瞬間に「みんなが幸せでありますように」とただただ願う、「私がこう願ったところで結果はそう何も変わらないのかも知れないけれど、今私はこう願ってやまないのです」という心が大事なのです。これが、願いが叶う・叶わない、良い・悪いという二元相対を超えたところの願いであり、そこに気付いていながら願うことが、仏教徒として大切な心なのです。
小さな子供が短冊にしたためた大きな願い、叶うか叶わないかは分からない、けれど「叶って欲しい」という密かな願いを込めつつ、「やっぱり願わずにはいられない」というところ。そう願う子供の心に癒されつつ、私自身が今のこの瞬間も「みんなが幸せでありますように」と願わずにはいられないのです。