釋宗演禅師のこころシリーズ〔16〕
(出典:書き下ろし)
達磨大師が印度から中国に伝えた仏教は、やがて「禅」と呼ばれるようになりました。そして、そのまたの名を「仏心宗」とも言います。それは、禅の教えの要が「仏心」に目覚めることを目的としているからです。
「仏心」は大乗経典の『涅槃経』に「一切衆生悉有仏性」とあるように、すべての生きとし生けるものに本来具わっている仏としての心を表わしています。
また、「仏心」「仏性」には「自性清浄心」「光り輝く心」という同体異名もあります。「私たちの心は本来清らかなものである」という仏教の思想は原始仏典の『増支部経典』の中にも見ることができます。
比丘よ、この心は光り輝くものである。しかしそれは偶然的な煩悩によって汚されている。……
そして、その光り輝く心は、偶然的な煩悩から離脱している。……
一体、「仏心」とはどのような心なのでしょうか。釋宗演禅師は『菜根譚講話』の中で「仏心」を次のように表現されました。
本来の心体は、日月の玲瓏(れいろう)として光り輝けるが如く、まことに明らかなるものであるが、それが雑念妄想のために本来の光を覆い隠されて終わっている。若し本来の光を失わず、それに一点の曇りがなかったならば、暗黒の窟中に在っても、青天白日の中に居るのと同じである。
私たちの本来の心体、つまり「仏心」は、太陽が光り輝くどこまでも澄み渡った青空のようなものだというのです。けれども、澄みきった青空も時として雲に覆われ嵐となることだってあるはずです。
私たちの心には、常に様々な思いが雲のようにたなびいては消えていきます。ところが、ある思いに囚われ続ければ、やがて思いは心を埋め尽くします。青空が暗雲に覆われてついには台風となって荒れ狂うように、心は激しくかき乱されてしまうのです。
そんな時、真っ暗な嵐の世界の中に在っても、台風の目と呼ばれる雲一つない無風状態の穏やかな世界が必ずあるということを思い出してください。私たちの本来の心は光り輝く青空として常にそこにあります。
たとえどれほど大きな台風に巻き込まれても、常に自分が台風の中心にいるとしたらどうでしょうか……。
心がかき乱されてしまった時には、そっと静かに自分の心の中心に意識を向けてみましょう。そこにはいつであっても不動の光り輝く心があるはずです。
そこは、思慮分別を離れた世界、何の思いも言葉さえも無い清らかで静かな場所です。
その光り輝く心にいつも気付いていることができたなら、たとえどの様な心の状態であったとしても、私たちは本来の心である「仏心」と一つになって生きているのではないでしょうか。