大用国師のこころシリーズ〔7〕
(出典:書き下ろし)
お釈迦さまは、拘尸那羅(くしなーら)の城外跋提河(ばつだいが)の畔の沙羅双樹の間にお休みになり、最後の説法をされました。枕元の弟子たちに「質問はないか」と3度尋ねられるも、悲しみのあまり誰も声を発することはありませんでした。長老の阿那律(あなりつ)尊者が「師よ、誰一人疑いを持つ者はないと存じます」と申し上げると、釈尊は「あの河の流れが聞こえるか」と問われました。
耳を澄ますと、抜提河の流れが「サラサラ」と聞こえてきます。「はい聞こえます」と答えると、「あの河の流れのように常に移りゆく、水の流れがやがて石に穴を穿(うが)つように精進努力するがよい」、この言葉を最後に釈尊が入滅されたのが2月15日、涅槃会(ねはんえ)です。満月の夜のことでした。
この涅槃会に江戸時代の禅僧で、誠拙周樗(せいせつしゅうちょ・大用国師)・(1745~1820)は次の詩を詠まれました。
けふはなし きのふはありと みほとけの
すかたにまよふ 人そかなしき
私たちは愛しい人、親しい人を亡くすと、昨日まで居た人が今日はもう居ない、と嘆き悲しみます。それはお釈迦さまの入滅に会った多くの弟子たちや、信者も同じであります。しかし、お釈迦さまは弟子たちや信者のために次のように説かれました。
汝等(おんみら)よ、今わがやすらいに入るを見て、正法とわに絶えたりと思うこと勿れ。われ已(すで)に汝等の為に戒を誨(おし)えまた法を説けり。わが亡き後は、これを重んじこれを尊ぶこと、闇(くら)きにありて明(ひかり)にあい、貧しき人の宝を得るが如くなるべし。これこそ汝等の生きたる師なればなり。汝等よ、吾が終わりすでに近づき、とわの別れ目前に逼(せま)れり。されどいたずらに悲しむことを止めよ。滅びるものは壊身(えしん)に外ならず、真(まこと)の仏はさとりの智慧にして、永久(とわ)に生き存(ながら)えん。吾が壊身を見るものは吾れを見るものに非ず、正法(さとり)に目醒(めざ)むるものこそ、つねに吾れを見るものなり。
臨済宗連合各派布教師連盟発行『送喪儀(そうそうぎ)』 遺教経 抜粋
お釈迦さまは「この身は滅んでも正法は決して滅びることはない。本当の師匠は私の身体ではなく教えである」と言われたのです。さらに「滅びるものはこの肉体だけであり、本当の釈尊・仏陀は悟りの智慧であり、それは永久に生き続けるのだ。故に釈尊の肉体だけを見ている者は本当の釈尊を見てはいないのだ」と。
この教えを、大用国師は「姿に迷う人ぞかなしき」と説いておられます。この世は「生者必滅・会者定離」、誰もが愛しい人、親・兄弟とも別れの時がやってきます。しかし、お釈迦さまや歴代の祖師方は勿論、祖父母、両親、恩人等々、貴方の大切な人々からの教えや思い出は、その人亡きあとに姿は見えずとも貴方が生きている間はずっと心の中に、傍に居るのです。