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釋宗演禅師のこころシリーズ〔11〕

(出典:書き下ろし)

 明治25年3月、釋宗演禅師は32歳にして鎌倉の円覚寺派管長に就任されました。また同年10月には京都の建仁寺にて39歳の竹田黙雷禅師が管長に就任され、二人の若き禅僧が指導者としての門出を迎えました。
rengo_1812b.jpg お二人の出会いは、おそらく明治3年から5年の間、共にまだ十代のころ妙心寺天授院の越渓老師の下で修行されていた時であると思われます。その後、それぞれ仏道修行の道を歩み始めますが、黙雷禅師は岐阜の正眼寺にて修行中に病をえて、京都で静養することになりました。一方の宗演禅師は建仁寺の学寮である群玉林の千葉俊厓(ちばしゅんがい)禅師の下で内外の仏典を学んでおりました。
 明治7年には宗演禅師の勧めによって黙雷禅師も群玉林に加わり、お二人は建仁寺で共に学ぶことになりました。この頃の出来事として黙雷禅師の著書『禅の殺活』に次のような逸話が残されています。

玄沙師備(げんしゃしび)禅師が、或る僧からの手紙の返事に、白紙三枚を封じ込んで送られたさうなが、白紙の返事とは面白いナ。この白紙の手紙が読めんやうぢや、宇宙の活書を読むことは出来んぞ。(中略)
 亡くなった宗演和尚が十七歳、衲(わし)が二十歳、まだ二人とも雛僧時代ぢやつた。或時、衲は、師備禅師の真似をして、宗演に白紙の手紙をやつたことがある。當時、その白紙の手紙の読めなかった宗演も、なかなか豪(えら)い者になつて死んだ。

 お互いに修行僧として切磋琢磨する中で、昔の禅僧の故事から宗演禅師に白紙の手紙を送られたという黙雷禅師。その胸中は推察することしかできませんが、白紙の手紙でも自分の思いが理解してもらえるだろうというほどに、お二人の友情は厚いものだったのではないでしょうか。
 黙雷禅師の語録『暗号密令』には、大正8年宗演禅師が61歳で遷化された時の心境が「宗演和尚を悼(いた)む二首」という題で残されています。

万壑の秋風夢を驚かす頻(しきり)なり
轉(うた)た伝ふ師友遽(にわか)に真に帰すと
無常の鬼使何ぞ残忍なる
此の宗説兼ね通ずるの人を奪ふ

正に是れ秋光揺落の辰(とき)
又驚く老友の忽(たちま)ち真に帰するを
風饕(ふうとう※)霜虐(そうぎゃく)無情甚だし
宗に通じ説に通ずるの人を惜せず

※風饕(フウトウ)=風に吹きさらされる。外に辛苦する。

 二首の漢詩に共通する言葉が2つあります。「真に帰す」と「宗通説通の人」という言葉です。「真に帰す」とは、本来の心に帰る、仏教で死のことをいいます。また「宗通」とは修行によって宗旨に通達すること。「説通」とはその通達した宗旨を自由に説示することです。東嶺和尚が『宗門無尽灯論』の中で

「吾が宗の重んずる所の者は惟(た)だ宗通説通にあり」

と示されておりますが、「宗通説通の人」とは黙雷禅師から宗演禅師への禅僧として最大の賛辞ではないでしょうか。

※写真は百丈野狐図画賛(竹田黙雷筆・禅文化研究所蔵)

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