釋宗演禅師のこころシリーズ〔9〕
(出典:書き下ろし)
先日、とある動物園へ行き、バスの中から動物にエサを与えるという、いわば「サファリバス」なるものに乗りました。
窓ガラスは無く、遮るものは金網のみ。そこからライオンやクマ、シカなどにエサを与えることができるというものです。
いよいよ終わりに近づいたとき係員が、
「ここからのゾーンは肉食動物よりももっと凶暴な生き物のゾーンです。皆さま、くれぐれもお気を付けください」
と説明します。
厳重なゲートが開くと、そこは出口でした。「凶暴な生き物」というのは、我々人間のことだったのです。思わず笑ってしまいましたが、笑って済ますわけにはいきません。
考えてみれば、人間ほど恐ろしく、残酷な生物はいません。自分の行為を正当化し、自分の都合によって動物の大小は問わず、同じ人間まで殺してしまう。それが国レベルの衝突となれば、戦争にもなりかねません。
私たち人間は、赤子を抱いたその手でミサイル発射のボタンを押し、我が子にプレゼントを渡すその手で銃の引き金を引き、我が子の頭を撫でたその手でナイフを持つのです。
戦争や暴力が悲惨な結果を招くことは知っていても、それをやめられないのが人間です。
禅の教えを世界へ広めるきっかけを作った元円覚寺派管長の釋宗演禅師。
1893年、宗演禅師はシカゴで開催された第1回万国宗教会議に出席し、そこで「仏教の要旨並びに因果法」「戦ふに代ふるに和を以てす」という2つの演説を行ないました。
とりわけ2つ目の演説は、人類にとっての普遍の真理を説いて、宗教が戦争を避けるために果たすべき役割を問い、普遍的な人類愛にもとづいた家族的な共同体を、この地上に作り上げること。その普遍的な人類愛の実現は慈悲と寛容の源である宗教の役目であると訴えました。
言うまでもなく、戦争は、絶対に許されるものではありません。戦争は一部の野望に燃える人々が、人類の平和を脅かし、世界の秩序を覆そうとして、普遍の真理の実現に向かおうとする、歴史の大きな流れに逆らおうとするものに過ぎないのです。(中略)
そもそも、戦争が私たちに何をもたらしてくれるというのでしょう?
何も、もたらしてはくれません。戦争とは、弱い者が、強い者に虐げられることに過ぎないのです。戦争とは、兄弟同士が争い、血を流し合うことに他ならないのです。戦争とは、強い者が、結局何も得るものがない一方で、弱い者がすべてを失うことなのです。
(訳者・安永祖堂方広寺派管長 ニーリイ版『宗教会議の沿革』所収のものから翻訳である)
これは、かつて師の今北洪川老師の反対を押し切って留学したセイロンで、英国の奴隷と化した植民地の現状を目にしたことから発せられた宗演禅師の切実な思いでしょう。
征服された者は征服した者を怨み続け、終わりのない争いは、双方が苦しみあうだけであり、何ももたらすものなどないのです。
存在するものすべての相依相関の真理に目覚め、たがいに協力する時、はじめてわれわれは栄えるのだという事実を、まず自覚しようではないか。そして、力と征服の考えに死して、一切を抱擁し、一切を許す愛の永遠の創造によみがえろうではないか。愛は実在をあるがままに正しく見ることから流れ出る。
『禅』鈴木大拙著・工藤澄子訳
宗演禅師に参じ、禅師の紹介で渡米し、多くの禅の書物を英訳した鈴木大拙居士は、こう述べます。
人種、文化、思想や信条、信仰や宗派の違いはあろうとも、一人一人の命は平等で尊いものです。その輝ける命の一人一人が互いに関わり合って成り立ち、互いによりあって存在しているのです。それが普遍の真理、相依相関の真理というものでしょう。
だからこそ、自分の都合に沿わなくても、互いを認め許し、互いに理解を深め、互いを敬い、愛すという慈悲と寛容をもって普遍的な人類愛を実現せねばなりません。
今年の11月1日に釋宗演禅師の100年遠諱を迎えました。
残念ながら現在も戦火が絶えることはありません。しかし、できないからやらないと言っては、いつまで経っても争いは止むことはありません。戦争を起こすのが人間であれば、戦争を起こさない、起こさせないのも人間です。
宗演禅師が掲げた「普遍的な人類愛と恒久の平和という崇高な願いの実現」のために、まず私たちは互いによりあって生きていることを自覚することから始めませんか。そして慈悲と寛容をもって、物事をそのままに、自分の都合を離れてよく見極めてみませんか。そこに宗演禅師の願う普遍的な人類愛の実現への一歩が踏み出されるのです。