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壺中日月長し

(出典:書き下ろし)

myoshin1811a_400.jpg 秋も深まり、山々は紅葉に彩ります。赤や黄色は水面にも映え、眺める人のこころに安らぎを与えます。思わず時間を忘れ別天地を味わうとき、その境地を「壺中日月長し」と禅は讃えます。
 「壺中」とは壺の中の別世界。悟りの妙境を意味します。「日月長し」は時間に追われることなく悠々と人生を送る消息です。

 私たちには生まれながらに清浄なこころが具わり、喩えて「鏡のようなこころ」と呼ばれます。曇りひとつない鏡は、映ったものをありのままに映し出します。けれども、いつの間にかこころは執着に覆われて曇ってしまいます。
 執着の雲を消し去れば、ありのままに世界を観じることができるのでしょう。

 そういえば、「悟りとは、自然と自我との融合」と道中に記したのが、俳人・種田山頭火でありました。
 山頭火の人生は、苦難の連続でした。母の自殺、実家の倒産、妻との離婚、そして孤独……。挫折のどん底で酒に溺れながらも、あるとき禅寺で出家し、「生きる意味」と真剣に向き合い、一所不住の漂白の旅に出るのです。
 生涯、こころの浄化を誓った山頭火は、機会があれば読書にも夢中でした。愛読書は多数で、吉田兼好の『徒然草』・道元の『正法眼蔵』、芭蕉・西行・良寛に至るまで関心を深めていきました。

 昭和十年の道中記句集『柿の葉』の冒頭には、「この一年間に於いて私は十年老いたことを感じる」とあります。
 一見、苦労の表現に見えますが、「日月長し」とも思えるような悟境にも聞こえます。更に山頭火は、古人の足跡をたどりながらこう書いています。

芭蕉は芭蕉、良寛は良寛である。芭蕉にならうとしても芭蕉にはなりきれないし、良寛の真似をしたところで初まらない。私は私である。山頭火は山頭火である。芭蕉にならうとは思はないし、また、なれるものでもない。良寛でないものが良寛らしく装ふことは良寛を汚し、同時に自分を害ふ。私は山頭火になりきればよろしいのである。自分を自分の自分として活かせば、それが私の道である。

 山頭火は、自分の見える世界を、自分の見方で歩いたのだろうと思います。ただ只ありのままに世界を観じ、自然との融合を試みたのでしょう。

 実は壺中とは、決して悟りの世界などではなく、今自分が立っている足元を指します。苦しみの絶えないこの世界は、こころ次第で桃源郷に変じることを教えてくれているのです。
 秋が奏でる彩りは、瞬時にこころに染まります。世界とこころが同化するとき、私たちは知らずと壺中に入り込み、「日月長し」の妙境に戯れているのかも知れません。

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