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釋宗演禅師のこころシリーズ〔7〕

(出典:書き下ろし)

rengo_1810a.jpg 釈宗演老師(1859~1919)は大正3(1914)年9月、花園大学の前身臨済宗大学の第2代学長に就任、56歳の年でした。それは初代学長を勤められた阪上真浄老師(1843~1914)の突然の遷化によるものでした。
 実は真浄老師がかつて滋賀県土山(現在の甲賀市)の永雲寺(大徳寺派)に住職していた頃、それは宗演老師が17、8歳の頃のことですが、近江三井寺で天台教学を学んでいたことがありました。この時の宗演老師の学習能力は相当高いものであったそうで、三井寺の講師から天台宗に改宗を勧められたほどでした。
 この三井寺での勉学中に1年ほど真浄老師の寺に滞在していました。その頃の永雲寺は明治政府の学校令で小学校の仮校舎に当てられていて、真浄老師も教壇に立ち、自身も大津師範学校(現滋賀大学教育学部)に学んでいました。三井寺と大津は近い距離にありましたので、お互いそこで行き来して交遊ができました。何れにしてもこうした真浄老師の広い教養を身につけた禅僧としての姿に、宗演老師は少年時代に接し新鮮な影響を受けたと思われます。

 面白い話として、永雲寺の真浄老師に接したとき宗演老師は「あなたの傍にはきっとご夫人がいると思っておりましたが、そうでなく禅僧として独り身のままで活動しておられるのを知り驚きました」と語っています。宗演老師は妻帯していない禅僧としての真浄老師の姿に魅了されたのでした。そして、宗演老師もまた周知のように、後年修行を終えてから26歳で慶應義塾に3年間修学します。そして、32歳の若さで円覚寺管長になった後も国内外へ布教活動を精力的に行ない、禅の近代化に多大な功績を残しました。真浄老師が臨済宗大学の初代の学長になり遷化後、大学から要請があった時に宗演老師が学長職を受けたのも、この真浄老師の後任ならば、という強い思いがあったからだと思います。
 学長職には大正6年3月まで3年間就任しましたが、この間に「臨済大学に就いて」という大学教育の必要性を述べた一文があります。
 「今日の仏教、今日の禅宗は、その内容において何等進捗の跡を見ぬ。”禅宗大学”を設けて、僧堂へ入るべき学僧を、精神の上に、思想の上に、見識の上に、充分の教育を施すべきは、目下の急務であると予は思う」と述べ、「予の理想はまだ此上にある。即ち仏教大学の建設である」とも述べています。
 この宗演老師の百余年前の言葉は今日の宗門大学への警鐘でもあり、将に炯眼(けいがん)ともいえます。こうした真浄老師と宗演老師の関係に私は『虚堂録』にある「青は藍より出て藍より青く、冰(こおり)は水より生じて水より寒し」の言を想起し、徳富蘇峰が「宗演老漢」で述べた「その人自身が進歩の本体たりし也」の一句は、宗演老師の面目をよく表わした言葉だと共感します。

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