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知るということ

(出典:書き下ろし)

 実は知っているようでいて、知らないこと、恥ずかしながら私は山のようにございます。
 皆さまはいかがでしょうか?
 昔から「論語読みの論語知らず」という言葉がございますが、書物に書いてあることや情報といったものを知識として理解するだけで、それを活かし切れていない人の例えであります。

 「知る」の意味は皆さまもよくご存じのとおりでございます。
 物事の存在・発生などを確かにそうだと把握する。認識する。気づく。感じとる。さとる。体験して身につける。学んで、また、慣れて覚える。等々であります。
 今更ながら、私自身、知識としてだけでなく、体得し、活かすことが「知る」ことの大切なところだと気づく次第であります。
 現代は新聞や雑誌、テレビにインターネット等、様々なメディアによって、自分が知りたいことを数多の情報より簡単に素早く知り得ることができますが、私たち自身は果たしてどれだけ実感を持って知り得ているといえるのでしょうか?

rengo_1809b.jpg 禅門には「冷暖自知(れいだんじち)」という言葉がございます。
 自身が直接的に冷たい、暖かいということを体験し、実感する。また、その体験した実のところは他者に伝えることができない」という意味でございます。
 例えば、ここに冷蔵庫で冷やされた水と40℃のお湯をお湯のみに入れてお二方の前に出したと致します。それを眺めながら、「こっちがお湯で、あっちが冷水」いや「こっちが冷水で、あっちがお湯だ」と互いが互いに検証し合ったところで無駄に時間が過ぎてしまうだけでしょう。
 理屈で証明できないことはありませんが、明確でしかも早いのはそれぞれのお湯のみの中身を飲んでしまうことではないでしょうか。
 一口飲めば、冷水かお湯かは人から面倒な理屈で説明されるまでもなく、どのくらい冷たい水なのか、どのくらい温かいお湯なのかを私自身が実感を伴って知り得るのです。
 人からどんなに事細かに教えられたとしても、実感を伴って私自身が知り得ることはありません。この実感を伴って知り得ることが大切なのであります。
 また、「冷暖自知」だからこそ、安易に知り得ていると思い込まず、そのとき一所懸命に実感を伴って知り得ようとする姿勢であり続けることが大切なのであります。
 気安く知り得ていると思い込まない。謙虚に知り得ようとする姿勢であり続けることで、より様々な体験・経験を積み重ね、気づき、当たり前のことが実は有ることが難しいこと、すなわち有り難いことに気づいていく。そうなりますと、今まで見えていた風景も違ってくるのではないでしょうか。

 私が毎月、お参りに伺うご高齢のお檀家さんがいらっしゃいました。そのお檀家さんとの何気ない会話の中で「80は80なりの、90は90にならなければ知り得ないところがある」といわれました。
 若かったときの様々な苦労や楽しかったことを積み重ね、そして今、身体の老いや親しい友人がいなくなるといった様々な苦しみや寂しさを味わっている中だからこそ、あのときは見えなかったものが、今では少し見えてくるようになり、目に見える風景も随分と変化するものだと教えて下さいました。

 自らが自らの体験・経験によって実感として知り、気づき、会得することが「禅」では大切であります。だからこそ、安易に知り得ていると思い込まず、私自身が知り得ようとする姿勢であり続けることが肝要であります。それが「知るということ」ではないでしょうか。
 私自身、改めて実感として知り得ることを積み重ね、気づき、会得できるように、日々私なりの風景が見えるように、努力精進を積み重ねなければと思う次第です。誠に僭越(せんえつ)ながら、縁あってこの法話をお読み下さった皆様方におかれましても、日々皆様なりの風景を見ていただく手助けになりますれば幸いです。

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