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大用国師のこころシリーズ〔5〕

(出典:書き下ろし)

rengo_1808b.jpg 「禅は、虚無主義とどう違うのですか?」
 5年ほど前、禅を学ぶアメリカ人男性にそう問われたことがあります。虚無主義とは、真理、価値、目的、権威などに、人間自身が与える意義以外に根拠がない、つまり虚無であることを理由に、それらを否定する立場のことです。それと「無」や「空」を説く禅は混同されることがあります。
 例えば世間一般で言われる「悟りきったような」という形容には、よい意味だけでなく皮肉を込めた冷たい意味も加わるものです。そのような誤解は世の中に蔓延しているといっても過言ではありません。
 さて私はその時、「情け容赦のない虚無という現実を知った上で、投げやりになるのではなく、改めて人間らしく前向きに正しく生きること」と応えました。人は事実を明らかにしたくらいでのぼせ上がって、それが結論だと思いがちですが、それは禅を10段階で表わせばまだ8番目、道半ばです。いわば登山に行ったはずが麓で満足して、登らずに帰って来てしまうようなものでしょうか。人の生き方を説く禅には肝心のその先があるのです。

 京都、相国寺の修行道場を再興したことでも知られる大用国師は、卓越した禅者でありながら非常に人間らしい人物であったともいわれます。一方では「鉄閻魔(てつえんま)」と称されるほどの厳しさを持ちながら、他方では村の人々にその人柄が大変愛されたそうです。また自分を捨てたと一度は恨みかけた母親のその時の悲しみを常に想い感謝し、亡くなった時その菩提を供養する為に70歳の身で観音様を祀(まつ)る西国三十三所を参拝して歩かれました。思えば閻魔とは、慈悲深い地蔵菩薩の化身でもあるのです。それはこの世が虚無であったとしても、心あればこそやるべきことがあるという、大用国師の禅的な生き方なのです。
 人の心とは誠に不思議。それが決定的に何かを変えてしまうほどの力を持ちます。人の姿をしていても、人と称されるかは別です。人の心を失った者を、私達は「人でなし」と呼び、「鬼」と呼びます。一方で人ではないもの、生物や自然、人間の生み出した人形や機械に人の心を見ることもあるかもしれません。
 人は死んだらお終(しま)い。極端な人は、死体は物だと感じるようですが、戦時中やいじめの構図など、人は生きている相手さえも物扱いすることがあるのではないでしょうか。ものが物にしか見えなくなったら、それはもう心を失う危険な徴候なのかもしれません。

  たらちねの 長き別れの 手向(たむ)けには
    いやつつしまん 我身(わがみ)ひとつを
  (我が亡き母に何を供養するのか。慎み深く生きることこそが、一番の母への供養である)

 これは大用国師が亡き母に誓い詠んだ歌です。供養という言葉は「供える」と「養う」でできています。供えるのは亡き人に供えるのですが、養うのは一体何であるのか。いくら供えても亡き人を養うことなどできはしません。本当の意味で養うものとは、自分の心しかないのです。
 事実を明らかにしても問われるのは生き方です。そして生き方を左右するのは己の心に他なりません。例えば北方領土への墓参が毎年ニュースで流れますが、それが一つの証明であるように、どんなに困難な道程であろうと墓参する人は墓参するし、どんなに近くてもしない人はしません。遺骨も、邪魔になるからと処分を願う人もいれば、災害等で何年も行方不明のままで、せめて遺骨だけでも戻って来て欲しいと願う人もいます。どちらが正しいなどという話ではなく、人間とはそういう生き物であり、第三者から見れば、心は生き方に表われているということです。

※写真は大用国師頂相(部分・円覚僧堂蔵)

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