釋宗演禅師のこころシリーズ〔6〕
(出典:書き下ろし)
釋宗演禅師は、弱冠23歳にして今北洪川老師の元で修行を仕上げられ、32歳の若さで円覚寺派管長に就任。翌年、シカゴで開催された万国宗教大会に日本仏教代表として講演し、これが海外への禅の発信・普及の嚆矢(こうし)となりました。そしてこの講演が機縁となり、宗演禅師のもとで参禅していた鈴木大拙居士が、禅師の推薦により渡米。ここに大拙居士の世界的な禅思想家としてのキャリアが始まります。
約10歳年長の宗演禅師を師と仰ぎ、兄と慕い、友の如くに親しんだと語る大拙ですが、師の死を悼む小文に次のようなエピソードを書き残しています。それは密葬の日の朝、禅師の住職された東慶寺へ向かう玄関先で、妻ベアトリス夫人と幼い息子さんの交わした会話です。
―Are we going to see Kwancho-San now ?
(これから管長さんのところに行くの?)
―You won’t see him any more. He’s gone away to Buddha.
(管長さんにはもう御目にかかれない、仏様のところへいらっしゃったので。)
―Has he gone away to meditate with Buddha ?
(仏様のところへ坐禅しにいらっしゃったの?)
―Yes, my dear Child.
(そう。)
これを聞いた彼は「おう」と言うた、そうして全く満足したように見えた。
言葉にならない淋しさと悲しさに涙しながら、深い親愛の情と感謝の念の故に、その涙にも師の温かみを覚えるようで、「不思議に悲しいのである」と大拙は胸の内を語ります。生あるものの死という自明を、むしろ幼い我が子の方が素直に受けとめていると感じ、母子の何気ない会話に、大拙はかつて師と交わした問答を想起したのかもしれません。
四十九日も済み、御堂に位牌を納めた後もなお、あんな暗い寒いところではなく、きっと老師は暖かな陽だまりへ出て、吾らと一緒に日向ぼっこをしているに違いない。庭の松の枝が動くのにも、ふと老師の面影がちらつき、その声音に触れる気がしてならない。生きたとか死んだとか言って、法要を営むのさえ可笑しな気がする、と心情を吐露しています。
一周忌に寄せた別の文章でもやはり、老師がまだ生きているような心地がしてならないと、彼は心に問うてみるのです。事実、老師が亡くなってあっという間に一年が過ぎたが、こうして時は流れ、いつか他人も自分も、皆ことごとく、永遠というものの裡(うち)に吸い込まれていくのだろう。人生は儚(はかな)い。けれども、「永遠」を「刹那(せつな)」に見ていけば、瞬間瞬間に無限が現われているのかもしれない。それでも刹那が、瞬間瞬間、水泡のように消滅していくのであれば、永遠もまた、儚いものなのかもしれない。主の居ない東慶寺の境内に、室内に、禅師の面影を偲び、慈愛に満ちた師の言葉と思い出を懐かしく認めながら、大拙はこう結んでいます。
老師の残骸は松丘の上、楓樹の下に埋められても、その精神は宇宙に磅礴※(ほうはく)して居るのである。この点から見れば、吾も亦(また)この儘(まま)でその精神の上に働いて居るのであろう。(中略)何かはわからぬが、吾と彼と何れも同じもののうちに居て、そうして吾は吾、彼は彼、泣いたり、喜んだり、刹那を永遠にして、永遠を刹那にする。
※磅礴…まじりあって一つになる、みち広がる。
宗演禅師に、こんな歌があります。
咲くも夢 にほふも夢の 世の中を ちるや櫻の まことなるらむ
生もゆめ 死も夢ゆめも やがてゆめ たゞ一枝の 花をながめて
生と死、夢と現の果てで、相対の世界を超えたところで、はからいなく、確かに、明らかに咲いている、一枝の花。散る花の儚さこそが、花のまことであるとしても、言葉も思いも寄せ付けぬ、ただ明らかな花の刹那の眺めに、人は永遠の風情を生きるのかもしれません。
今日では、世界各地の道場で禅が学ばれ、実践されています。その淵源の一つは確かに、旺盛かつ先進的であった宗演禅師と、師の導きと支えのもと、禅の道を探求した大拙との出会いに他なりません。禅に対する現代の世界的な関心にとって、それはまさに運命的、決定的なご縁であったと言ってよいでしょう。
釋宗演禅師と鈴木大拙居士。このご縁のもとに禅は世界へ花開き、そしてこの法縁は尽きることなく、今もまた結ばれ続けています。