初心忘るべからず
(出典:書き下ろし)
「初心忘るべからず」この有名な言葉は、学校、職場、家庭、様々な場所で使われていると思います。室町時代に能を大成させた世阿弥の言葉です。2008年4月の法話記事も合わせてご覧ください。
私はこの言葉を平成30年3月1日に御遷化された萬仭軒(ばんじんけん)老師より、自身の結婚式の祝辞としていただきました。萬仭軒老師は私の修行時代よりの師匠で岐阜県多治見市永保寺の住職であり、虎渓僧堂の師家を務められていた方です。結婚式の時は慌ただしく、また日々の雑務に追われて自身の結婚式を振り返ることはなかったのですが、御遷化の報に触れ、改めて式のビデオを見直しました。そこにはあの優しく、じろりと人を見抜く眼差しの老師が映っており、
初心忘るべからず
時々の初心忘るべからず
老師が良く使われていたこの言葉をいただいておりました。
「初心」とはいったい何でしょうか?
修行時代、老師より、この言葉を初めて聞いた時は初志貫徹、初めの志(こころざし)に腹を据えて、一度思った事を何がなんでもやりきり、貫いていくことと思っていました。しかし、老師は、「人生には様々な波があり、波に臨む時、人間は本来の面目、素直に純粋な気持ちになる。何かある時、向き合った時に初めて起こる心、その素直な純粋な気持ちを『初心』と呼び、その事を忘れてはいけない」、そう話されていました。
素直で純粋な気持ちで、物事に、人生の波に向き合う。私が修行した虎渓山は広く、掃除一つするにも大変な場所です。我々がつい掃除に追われて、一つ一つの仕事が雑になりかけた時に、老師は折りをみて、よく「初心忘るべからず」この言葉を使われていました。老師は自己主張をほとんどされず、常に謙虚で頭を下げられていた方でした。
修行時代の恥ずかしい思い上がりで、「とにかく自分たちで何とかしなければ。自分たちが居るから、ここはキレイに保たれている。こんなに忙しい自分たちが掃除してやっているんだぞ。だから少しくらい雑でも仕方ないだろう」という驕った自己主張を、老師はあの優しくもじろりと人を見抜く眼差しで、修行僧を諫め、それでも老師は大きく口出しすることはなく、修行僧の自主性を大切に見守ってくださいました。慢心、驕る気持ち、「私が、私が」という気持ちを諫めている言葉が、「初心忘るべからず」であると現在では受け取っています。
皆さまはいかがでしょうか?
仕事や家庭でも慣れが生む「私が、私が」という驕りをもったままだと、どこか軋轢を生んでしまうかもしれません。仕事では、経験があるからといって油断することなく、初めの気持ちを忘れず時々に勤めていく。家庭では、長く連れ添っているからといって驕ることなく、初めの気持ちを忘れずに連れ添ってゆく。事の起こりに我々の中に浮かぶ、素直で純粋な気持ちを大切にできれば、人生のどんな波にも向き合っていけると願っております。