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大用国師のこころシリーズ〔2〕

(出典:書き下ろし)

 静岡県浜松市の久留米木(くるめき)に「竜宮小僧の伝説」というものがあります。その伝説とは、次のようなものです。

rengo_1805a.jpg 昔、久留女木の川に竜宮に通じているといわれた淵がありました。村人が田植えに忙しくしていたり、急な雨で困っていたりすると、その淵から小僧が出てきては、村人を助けてくれました。その小僧はいつしか竜宮小僧と呼ばれるようになりました。
 ある日、村人が感謝をこめて、竜宮小僧を食事に招きました。ところが、間違って竜宮小僧には毒となる「たで汁」を出してしまい、これを飲んだ小僧は死んでしまいました。村人たちはひどく悲しみ、泣く泣く竜宮小僧の亡骸を、榎木の下に葬ります。するとその木の根元から、こんこんと水が湧き出しました。村人はその水を利用して、たくさんの田んぼを作りました。それが今も残る、久留女木の棚田であり、竜宮小僧の湧水は、いまも棚田を潤し続けています。
 
 この昔話を聞いたある人が、こう言いました。
 「村人のミスで自分は死ぬことになったのに、なぜ竜宮小僧は村人たちのために湧水を出したのですか? 普通なら、間違ったことをした村人にバチが当たるという話になると思うのですが」。
 この言葉に、私は「うーん…」とうなってしまいました。善い行ないをした人が報われ、間違った行ないをした人は罰を受ける、これが社会の当たり前なのかもしれません。しかし自分自身の生活を振り返ってみるとどうでしょうか。法を犯したことはなくとも、「間違ったことなど一度もしたことはない」と胸をはって言える人はどれだけいるでしょうか。

 鎌倉・円覚寺の中興の祖といわれる、大用国師(誠拙周樗禅師)は次のような句を詠んでおられます。

  つみあるも罪なき人もほとけぞと しれはすなはち仏なりけり

 罪を犯した人も、そうでない人も、皆な生まれたときから仏さまと同じ心をいただいている、そう思える人が仏である、とおっしゃっているのです。
 では、この仏さまの心とはどんなものか。それは「慈悲心」です。どんな人でも生まれながらにして、この大いなる慈悲の心をいただいております。人のために何かをしたとき、お礼をいただかなくても、「ああ、良かったな」と爽やかな気持ちに誰もがなる、これが「生まれながらにして」仏さまの心をいただいている何よりの証拠です。
 間違った行ないをした人をことさらに責めるのではなく、さらに一歩踏み込んでその人を慈悲の心で包んでしまう、これがこの昔話の肝なのではないか、と私は思うのです。竜宮小僧は村人のミスが原因で亡くなったのですが、死してなお、村人のために水を提供してくれた。竜宮小僧の慈悲心に溢れた行ないは、まさに「仏なりけり」です。そしてその行ないに触れた人々もまた、仏の心に目覚めていくのです。

 現在も久留米木の棚田は竜宮小僧の湧水の恩恵を受けています。そこで耕作している「久留米木竜宮小僧の会」の方々は、勤めながら休日に農作業をしている人が多いため、時間が十分に取れず、作業途中で家に帰らなくてはならないことも度々あるそうです。
 ある日も、田植えの途中で日が暮れてしまい、家に帰りました。そして次に作業に行くと、不思議なことに田植えがすべて終わっていたといいます。近隣に住む農家さんに「誰がやってくれたのでしょうか」と尋ねると、皆さん口をそろえて「竜宮小僧がやってくれた」と言ってニコニコしているのだそうです。おそらくは近隣の農家さんの誰かがやってくれたのでしょうが、彼らは決して「自分がやった」とは言いません。竜宮小僧が身をもって示した慈悲の心=仏の心は、今なお久留米木の人々に受け継がれているのです。

 私たちは、正しく生きているつもりでも、ついうっかりと間違った行ないをする時があります。それにも関わらず、自分のことは棚に上げ、他人の間違った行ないに対し必要以上に目くじらを立てていませんか。
 「つみあるも罪なき人もほとけぞと しれはすなはち仏なりけり」の言葉の通り、お互いがお互いを許し合い、慈悲の心で付き合うことができたなら、仏さまのような穏やかな心で日々を暮らせるのではないでしょうか。

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