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大井際断老師を偲ぶ

(出典:書き下ろし)

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  東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

 菅原道真が梅の木に別れを告げたこの歌のように、私どもの本山であります方広寺にも、主なき梅の花が満開を迎えております。去る2月27日、方広寺派管長の大井際断老師が満103歳でお亡くなりになりました。

 老師は27年間にわたり方広寺派の管長をお勤めになる傍ら、僧堂師家として雲水(修行僧)の育成にも尽力されました。私が修行しておりました頃は既に90歳を越えておられましたが、矍鑠(かくしゃく)として摂心(修行の大事な期間、いわば修行僧にとってのテスト週間)の行事にも欠かさず臨んでおられました。
 摂心の折りには毎回、老師から禅の書物についての講義を受けます。老師はかつて西洋哲学の教授として教鞭をとっておられましたので、講義でもよく、西洋哲学の視点から見た仏教について論じてくださいました。犬儒ディオゲネス、名医アスクレピオスなどの哲学者やギリシャ神話の話は、私たち雲水にとっては新鮮な驚きでした。また色紙や香語(法要の時にお唱えする漢詩)に、「エリュシオン」(ギリシャ神話における浄土)や「エルドラド」(南米の神話における桃源郷)という耳慣れない言葉を使われ、それについても解説してくださいました。老師の教えを一言で表わすならば、「我々現代の仏教徒が持つ宗教観・死生観は特別なものではなく、国や時代に関係なく全人類に共通する普遍的思想である」といえるでしょう。
 また老師は、講義でよく「今日我々は、この則(公案集の一節)について解き明かしていくわけであるけれども…」とおっしゃいました。雲水に課題を出される際には必ず「あなた方は」ではなく「我々は」という表現をお使いになり、常にご自身に対しても課題を課しておられました。生涯をかけて、孫くらい歳の離れた弟子と共に仏法を追究してこられたその謙虚なお姿こそ、私たち弟子に示された最大の教えであります。

 昨年の秋、ひょんなことから老師に色紙をいただく機会がありました。それには一字、「夢」と書かれています。それは平敦盛や荘子のように、人生の儚さを表わした言葉でしょうか。それとも、上求菩提下化衆生(自らの修行を完成させつつ、他者を救済する)という大井老師ご自身の夢を説かれたものでしょうか。今となってはその意味を知る由もございませんが、この色紙を眺めていると、老師がいつものように人差し指を立て、目を細めてこうおっしゃっているお姿が目に浮かぶようです。
 「これ、次の課題よ? ――我々はこの夢という言葉に、一生涯をかけて取り組んでいかねばならん」

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