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釋宗演禅師のこころシリーズ〔2〕

(出典:書き下ろし)

なき親の残しし園の花折りてまつるこころに神いますなり
                          ―『楞伽窟歌集』より

rengo_1803b.jpg 釋宗演禅師(1858-1919)は若狭国高浜(現福井県大飯郡高浜町)に生まれ、1870年に得度。1878年に円覚寺の今北洪川老師の元で修行を始め、「宗演禅士は観音の再来」と師匠に言わしめるほど、自分のことを抜きにして徹底的に人々のために尽くされた素晴らしい禅僧でありました。

 冒頭の句は釋宗演禅師の歌集、『楞伽窟歌集』にある一句です。今は亡き両親が遺した庭に咲く花を、在りし日の面影を思い浮かべながら墓前に手向け、心静かに手を合わせる。そんな姿を目にして思わず頭の下がる思いがする…。「ある人に」と添えられたこの歌は釋宗演禅師の考える供養のあるべき姿を示しているようにも感じられます。釋宗演禅師は12歳で出家して親元を離れているので、親子の関係にはよりいっそう特別な思いを抱いていたのかもしれません。

 供養という言葉は分解すると「供える」、「養う」の二語となります。ご先祖さまの供養をする、親の供養をする、などというと供えることで親やご先祖さまを養っているように感じますが、養っているのは私たちの心であるともいえます。
 冒頭の歌の「ある人」も、在りし日の両親を思い浮かべながら墓前に花を手向けたとき、そこには確かに親子の縁、絆が感じられたはずです。「いつでも両親は自分のことを見守ってくれているのだ」という感覚。日本伝統の言い回わしをするならば「草葉の陰」でしょうか。そういった感覚は自分自身の心の安心に繋がります。
 「ある人」は、両親に供養をすることで知らず知らずのうちに両親からも供養されていたのです。誰かのためを思って一所懸命にしたことが知らず知らずのうちに自分の安心に繋がっていく。ここに供養をすることの大切な意味があるのです。

 当たり前のようですが、「お供えをする」という行為はお供えをする対象がいないと成立しません。私たちが仏さまやご先祖さまに向けてお供えをするとき、そこに私たちとのご縁があるということです。私たちはそういった数え切れないくらいたくさんのご縁に育まれて今、ここに生きているのですが、普段忙しく毎日を過ごす中ではしばしばそのことを忘れてしまいます。だからこそ、現代では忙しい日常から離れてご先祖さまに心静かに手を合わせる時間は、よりいっそう貴重なご縁なのだと思います。
 お供えをすることによってご先祖さまと私たちのご縁を結び、私たちが今ここにあることの有り難さ、不思議さに気づく。供養を通じて私たちが今、ここに生きていることの不思議に気づいていく。そして私たちがまた明日からの一日一日をしっかりと生きていく機縁になる。これが供養のあるべき姿なのだと私は信じています。

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