白隠禅師のこころシリーズ〔13〕
(出典:書き下ろし)
「情けは人のためならず」とは、よく耳にする諺でありますが、よく意味を勘違いしている人が多い諺としても知られています。
「情けをかけることは、結局その人のためにならないので、すべきではない」という解釈と「情けは人のためではなく、いずれ巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ」という全く正反対の2つの解釈が成り立つというのです。平成22年に行なわれた文化庁の「国語に関する世論調査」ではどちらの回答も45%という結果が出ているそうです。
今年、平成29年に250年の遠諱を迎えた白隠慧鶴禅師の「善悪種蒔鏡和讃(ぜんあくたねまきかがみわさん)」『白隠禅師法語全集 第十三冊』の中に
「情けは人のためならず、即ち孫子のためとしれ」
という一節があります。白隠禅師は江戸時代初めの禅僧ですので、「情けは人のためならず」という諺は少なくとも江戸時代には一般に使われていたようです。ここで白隠禅師は後半部分に「即ち孫子のためとしれ」という句を続けています。これが白隠禅師の作によるものなのかは定かではありませんが、後半部分から察するに「情けは相手のためだけではなく、自分の子孫に恩恵が返ってくると思って誰にでも親切にせよ」という意味になります。
人に情けをかけるのに「子孫のためと思ってしなさい」というのは「見返りを求めてはいけない」という白隠禅師の思いが込められているのではないでしょうか。「情けをかける」ことを仏教の用語に置き換えるとするならば「布施(ふせ)」という言葉が適当ではないかと思います。「布施」というとお坊さんへの御礼のことだと思われるかもしれませんが、大乗仏教の修行徳目の1つで「施し与える」ことを表わしています。
この布施で最も優れているのは「三輪空寂(さんりんくうじゃく)」といって、施す者も、施しを受ける者も、施される物に対しても何の執着もないのが理想だとされています。「見返りを求める心」が少しでも残っていると「恩を仇で返された」とか「恩知らず」などと「恩着せがましい心」を生じかねないからです。
白隠禅師が22歳の頃、伊予松山の正宗寺において逸禅和尚の下で修行していた時の出来事です。
ある日、松山藩の家臣から正宗寺に優秀な修行僧がいるということで、白隠も含めて5人の修行僧がお斎に招かれました。互いに挨拶をすませると、主人は数十本の掛け軸を出してみせました。その中に錦の袋に包まれ、二重箱に入った一軸が皆なの目にとまります。恐る恐る開けて拝見すると、あまり見栄えのしない軸でありました。白隠はがっかりしながらも、よくよく見てみると、それは高名な禅僧、大愚宗築(たいぐそうちく)によって書かれたものでありました。
あまり上手な筆跡ではなく、文句もありきたりであるにもかかわらず、このように尊重されるのは、すべて大愚和尚の人徳であり、人間性である。それが優れているからこそ、このように大切に秘蔵されてきたのであろう。人が尊ぶものは大愚和尚の徳そのものであって、決して筆跡の良し悪しや理屈ではないと白隠はその時に悟り、一層修行に努めたといわれています。
白隠禅師は「情けは人のためならず、即ち孫子のためとしれ」と一般庶民にもわかりやすく、見返りを求めずに善行を積むことを説かれました。でも白隠禅師の本当のねらいは、「情けは人のためならず、即ち自分の修行のためとしれ」と、私たちが少しでも仏さまの心に近づくことではないでしょうか。