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根なし草のように暮らす

(出典:書き下ろし)

 卑山大安寺の境内では、金木犀の香りが漂い秋の情緒を感じる季節となりました。
 さて白隠禅師に、晩年の作とされる『草取り唄』があります。七・五調の形式で作られており、煩悩を草に置き換え、煩悩の草を根っこから取りのぞき、本来の心一つで生きていくことの大切さを口当たりのいい唄でもって説いているものです。
    
  草を取るなら、根をよく取りやれ またと意根をはやしやるな
  意根なきよに根をきりおけば 水に花さく根なし草

myoshin1710b.jpg 『草取り唄』の冒頭です。私たちの修行道場でも除草の時は、口酸っぱく根っ子から取ることを指導されます。私たちの心も同じく、煩悩の草を取りやるにも、表面だけを取り繕っても駄目で根っ子が肝心です。またその「意根」を「遺恨」と言い変えれば、「恨み、妬み、憎しみ」を育てるなとも聞こえます。
 例えば、自分にとって忌み嫌う人と決めつけた人の言動行動は、全て「何か裏がある」と疑い、嫉妬し疎ましく思ってしまいます。それは自分の心根が「そういう人間だ」と決めつけている、わがままな心が原因です。そして、「意恨なきよに根をきりおけば 水に花さく根なし草」と続きます。根なし草とは、地中に根を張らず、水に浮いている草で「浮き草」の事を指します。一ヶ所に生活の場を定めないことを「浮き草暮らし」などと使うように、「恨み、妬み、憎しみ」というようなわがままな心根を取り、根無し草であってこそ、どのような環境に在っても豊かな心で人生を歩めることを教えてくれています。

 その根なし草の心で、歌を作り続けた歌人がいます。福井の幕末の歌人、橘曙覧です。有名なエピソードとして、親交のあった福井藩主松平春嶽公より仕官の命令が下った時も、普通であれば地位や名声を選ぶように思いますが、曙覧は清貧の中で自分の心に忠実に生きる自由自在の暮らしを選び、断わったほどです。また国学者でもありましたが、福井藩主の菩提寺である大安禅寺をこよなく愛し、禅の世界にも通じていました。そんな曙覧は無心に、自然の織り成す何でもないことを発見し、こう歌うのです。

  たのしみは 庭にうゑたる春秋の 花のさかりにあへる時々 (歌集『独楽吟』)

 何でもない庭に咲く季節の草花が、咲き誇る姿に出会えた時の喜びをあるがままに歌っています。
 また曙覧は「うそいうな、ものほしがるな、からだだわるな」(「だわるな」は福井の方言でだらけるなの意)と子供に遺訓としてこの言葉を伝えています。つまり、どれだけ貧しかろうが心の根っ子は常に「素直」であれということです。貧しければ貧しい、お金が無ければお金が無い、それらを恥と思う心が恥であると読み取れます。ですから、「地位」「名誉」といった私たちの生活に優劣をつける心こそ煩悩の根っ子であり、それを取りやり、どんな環境、状況であろうと積極的に喜びを見いだしてこそ「根なし草」の生き方と言えるでしょう。
 またこのような歌も……。

  たのしみは 草のいほりの筵敷き ひとりこころを静めをるとき (前掲)

 根なし草のような暮らしとは、心の持ちよう如何で粗末な住まいも安住の地になるのです。

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