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白隠禅師のこころシリーズ〔12〕

(出典:書き下ろし)

  ちはやぶる 神代(かみよ)もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは

 ご存知の方も多いでしょう。百人一首にも収められている龍田川の紅葉の美しさを詠んだ歌です。平安時代の歌人、在原業平の作で、業平は六歌仙の一人でもあります。
 「神代の昔にも聞いたことがない。龍田川が真っ赤に水をしぼり染めにするとは」
 一面に紅葉が浮いて、鮮やかな紅色に染まっている龍田川。そんな幻想的な光景が脳裏に浮かんできます。
 さて、もう一つ龍田川の紅葉を詠んだ歌を紹介します。

  討つ敵は 龍田の川の 紅葉かな

rengo1710a.jpg 戦国時代に九州一円を征服した薩摩の大名である島津義久は、天正6(1578)年、耳川にて豊後の大友宗麟との決戦に臨みます。決戦前夜、義久は龍田川に紅葉が流れる光景を夢に見ました。その時に詠んだ歌が、この歌であると言われています。
 翌日、島津軍は大勝利を収めますが、当時、耳川は大敗した大友軍兵士の死体で覆い尽くされていたと言います。はたして義久は夢の中で龍田川に何を見ていたのでしょうか?
 三つ目の歌です。

  吉野龍田の紅葉も花も 外を尋ねる事ではないぞ

 臨済宗中興の祖と称えられる江戸中期の禅僧、白隠禅師の歌です。「日本一の桜の名所と謳われる吉野山の桜も、龍田川の紅葉も、『外』に尋ねて行って見るものではないぞ」と詠んでいます。それでは、どこを尋ねるのでしょうか? それは「外」でなければ「内」ということになります。では「内」とはどこか? それは他でもない私たち自身の「心の内」です。
 白隠禅師の言う、この「外」や「内」とは、外出するとか、家の中にいるとかいう意味ではありません。自分の心の「外」か「内」か、ということです。自然の光景というものは、誰が見ても同じように瞳に映ると思いがちですが、実はそうではありません。心次第でいかようにも変わってきます。なぜなら、心は光景を映す鏡そのものだからです。それは、先ほどの業平と義久の歌を思い出していただければわかるのではないでしょうか。

 熊本県の南阿蘇村に「一心行の大桜」という名木があります。樹齢430年、枝張りは東西21m、南北26mにも及び、まさに大桜の名にふさわしい威容を誇っています。
 春もたけなわの時節、ある60代の女性が母親を連れて、その大桜を訪れました。道すがら、車窓からあちこちに満開の桜が目につきます。楽しみにしながら車を走らせるのですが、いざ到着して大桜を目の前にするとがっかりしました。大桜は、まだ二分咲き程度で満開には程遠かったのです。
 「残念だったね」と声を掛けると、母が一言、
 「歳を取ると何でも遅くなるからね」。
 その言葉を聞いた瞬間、「見ている光景が変わった」のです。
 「歳を取ると何でも遅くなる」。確かにその通りです。樹齢430年の大桜、歳を取るなどという言葉では言い表わせないほどの年月を生きてきました。それでも、今年も大きく伸びた枝の先まで、数え切れないほどのつぼみをびっしりとつけています。きっと大桜は、自身の持てるエネルギーを、その隅々まで行き渡らせるのに、とても時間がかかるのでしょう。「ゆっくりでいいよ。頑張れ!」と、心の中で呼びかけました。
 この女性は比喩でも何でもなく、本当に見ている光景が変わったのです。なぜなら「心のありよう」が変わったからです。落胆の心で見れば、この世界は落胆の世界になり、慈(いつく)しみの心で見れば、たちまち慈しみの世界へと変わります。

 物見遊山だけでなく、何事においても大切なのは「心のありよう」です。仏さまの心でこの世界を見れば、この世界はそのまま仏さまの世界になります。行楽の好時節となりましたが、みなさん、くれぐれも仏さまの心を持って秋の風景を楽しんで下さい。間違っても怒りや憎しみの心など起こさぬように……。

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