法話

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不思議

(出典:書き下ろし)

 「不思議」という言葉には「世界の七不思議」とか「不思議な話」など、何か謎めいたもの、時には怪しいものの様な印象を受けるでしょう。不思議とは不可思議、思いはかることも言いあらわすこともできないということ。仏法の尊さを示しています。

 大徳寺開山、大燈国師が花園天皇と交わされた有名な問答があります。天皇は仏教への信奉篤い方でしたので、ある日国師をお召しになり仏教のことを聞かれました。その時遣いの者が国師に対し、道服を着け天皇から一段隔てた席からお話しされるよう伝えましたが、国師はそれを喜ばなかった。袈裟を着けて天皇と対座させてもらうよう再三求めたところ、天皇はこれをお許しになったのです。そこで、その通りに国師が参上すると天皇が曰く「仏法不思議、王法と対座す」と。すぐに国師はこれに応じ「王法不思議、仏法と対座す」と返されたということです。
 王法は王を中心とする秩序、すなわち俗世間の常識、慣習であります。世の習いではいかに徳の高い僧といえども、天皇と対等に向き合うことなど考えられないことである。しかし国師からすれば、どんな位階の人間でもすべて仏法の真理の中に生きている。これこそ人間の思慮の及ばぬ不思議なことであり、それ程に仏法は尊いものだということです。 大燈国師といえば、師の法を嗣いだ後、二十年乞食行に徹せられた方ですが、天皇にしても飢えに苦しむ民衆にしても、自分の立場を選んで生まれてくる者は一人もいない。「其れ人間の身を受けてこの世に生まれ来ることは爪の上端に置ける土」と菩提和讃にあるように、人として生を受けることこそ、まさに思い計らいを超えた不思議なのであります。近頃は頻発する自然災害に「想定外」という言葉が使われますが、そもそも大自然の中にあって時々刻々、私たちの生活すべてが想定外の連続なのであります。それでも今日一日過ごせることが有り難く不思議なことなのです。

 親鸞聖人は「いつつの不思議を説くなかに 仏法不思議にしくぞなき 仏法不思議といふことは 弥陀の誓願になづけたり」と言われています。親鸞聖人のいわれる弥陀の誓願とは、仏が人々を救おうとする心であります。

rengo1709b.jpg 寺の六地蔵に熱心にお参りされる檀家さんがいらっしゃいます。数年前の正月、そのご夫婦は境内で事故を起こしました。その日は総代さんが集まり、御祈祷の法要を始めようとしていたところ、突然ガシャンと大きな音。急いで外へ出てみると、山門の前で車が真横になっていました。アクセルとブレーキの踏み間違えで、手前の石垣にぶつかり、横倒しに止まったのです。車内の二人は動けそうでしたので、外から窓を割って救出しました。
 車は廃車にする程壊れている中で、幸い大した怪我もなく骨一つ折らずに済んだのです。境内は高台ですが、車は山門と階段の僅かな隙間に留まっていました。階段下の方へ落ちていたら命を落としていたであろう事故。ふと見ると、車が飛ばしたと思われる石垣の玉石が、側にある六地蔵の目前に転がっていました。私は「ああ、お地蔵様が救ってくださったのだ」と心の底から思いました。その場に居合わせた誰もが「お地蔵様のお陰だ」と皆な手を合わせていました。これこそ不思議としか言い様がない仏の力を感じたのです。
 勿論お地蔵様が念力で車を止めたという、いわゆる超常現象ではありません。車が反対に倒れなかったのも、飛ばされた石が六地蔵の目前で止まったことも偶々そうなったことでしょう。しかし、その偶然は、当然私たちの意志ではどうにもならなかったことです。どうにもならぬところで生かされている。その生かしているものは何かと問うた処に仏の不思議な力があるのでしょう。そう気付けた時に、私たちは真に慎ましい日々を送れるのではないでしょうか。
 お地蔵様の前で救われたご夫婦がそこで手を合わせている姿は、向き合う石像に対してのみならず、その日も無事にお参りが出来たことへの感謝が滲み出ています。その謙虚な表情に仏の姿を見ている様な気がします。

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