秋晴の空のように
(出典:書き下ろし)
今年も暑いお盆が終わり9月になりもうお彼岸です。お彼岸とは日本特有の仏教行事です。私たちは、お彼岸に六つの実践徳目である六波羅蜜を修めることによって此岸から彼岸に渡っていきたいと考えられているのです。
私たち一人ひとりは生まれながらに仏様と同じ心を持っていると信じられています。私たちの中に六波羅蜜はすでにあり、六波羅蜜は私たちが気づいていかなければいけないものではないでしょうか。
六波羅蜜の中の一つに智慧波羅蜜があります。こちらの知恵は後から本を読んだり勉強したりして付けたものであり、智慧波羅蜜の智慧は、ものごとをありのままにあるがままに、素直に受け入れていける生まれながらに備えている心です。
晴れてよし曇りてもよし富士の山
もとの姿は変わらざりけり
幕末から明治にかけて活躍されました、山岡鉄舟が読んだと伝えられている詩です。
この詩にある富士の山が智慧ならば、私たちの中には智慧という富士の山があるにもかかわらず、見えなくなってしまっていることがあるのです。そんな見えなくさせている雲こそ私たちの後からついてきた知恵によって付けた、自分はあれが欲しい、自分はこうしたいという煩悩や執着というものなのです。
以前私が修行道場にいたころ、托鉢に出ていた時の話です。托鉢は「ホーッ」と声を出しながら道行く人や、各お宅からお金や、食べ物を頂くといった修行の一つです。まだまだ残暑厳しい9月の初旬でしたので道行く人も少なく、なかなか何も頂くことができませんでした。
私は、暑い中歩いているのに、どうして何も頂くことができないのか、心の中で少し不満に思っていました。しかしお釈迦様の時代なら、この托鉢で頂いたものによって生計をたてていたことを思うと、このままでは帰れないという気持ちもあり、時間を忘れて歩き続けていたのです。
こんなに青い空にギラギラ輝く太陽を恨めしく思ったことはありませんでした。暫くして公園の木陰で休んでいると、「お坊さーん、お坊さーん」と遠くから声が聞こえてきました。顔を上げてみると、小さい手で水を入れた紙コップを持った幼児が立っていました。
「これを飲んでください」。差し出してくれた水はなんとも冷たく、おいしいものでした。聞けば向かいの幼稚園児ということでした。
私は水を飲みながら、子供たちのキラキラした丸い目の中に空に輝く太陽と同じ光を感じたのです。
先ほどの私は、暑い太陽のせいで今日は托鉢がはかどらないという自分勝手な思いにとらわれて「ギラギラした太陽」と思い、私たちにたくさんの恵みを与えてくれている存在である「キラキラした太陽」の光であることに気付かなかったのです。私自身の中にある雲が、目の前のあるがままを素直に受け入れることができなかったのです。
お彼岸を通して、私たちの心はいつも秋晴れの空のように一点の曇りもなく、晴れ渡っていきたいものであります。