安心
(出典:書き下ろし)
安心とは一般に、心が落ち着き心配のないことをいいます。仏教では、信仰や実践により到達する心の安らぎ、或いは不動の境地を意味します。
元は阿弥陀仏の救いを信じて往生を願う心の意味で用いられたものでした。
「うやむや」という言葉があります。ぼんやりしていてはっきりしない様子をあらわす言葉です。
私たちは兎角すべての物事に対して明確にしようとする傾向があります。それは「わからない」ものに対する不安があり、それを払拭するために、無理矢理すべてを明確にしてしまっているのです。しかし、世の中には、はっきりと決めつけることのできないものが沢山あります。いや、わかったつもりでいるだけで、ほとんどのことをわかっていないのかも知れません。その一つに私たちが亡くなった後、どうなるのか、どこへ行くのか、そんなことはいくら考えてもわかることはないでしょう。
そこで、私たちが死んだ後、「必ず死後の世界が存在する」と決めつける考え方と、「亡くなれば全てが終わる。死後の世界なんて存在しない」と決めつける考え方、このような「どちらか偏った考え方、見方をしてはいけませんよ」と仏教では説かれているのです。そのような偏見から迷いや不安が生じ、人との争いも生まれてくるのです。わからないものはわからないで良いのです。有るとか無いとかに囚われてはいけない。これを「有耶無耶(うやむや)」というのです。
京都清水寺の貫主としてお勤めになっておられた大西良慶和上さんという方がいらっしゃいました。
ある日、その和上さんのところに、大学の先生がこんな質問をしに来られました。
「貫主さん、極楽って本当にあるんですか」。
すると和上さんは、
「それはなあ、例えば小僧が『お風呂沸きました』と言うて来たとき、わしはその言葉を信じて寒い風呂にいくのや。裸になって、戸を開けて、突っ込むまで、その湯が熱いんか、ぬるいんか、わからんわけや。そやけど『沸きました』という言葉を信じんことには、わしは寒いところで裸になれんやないか。そやから法然さんや親鸞さんが『南無阿弥陀仏と唱えたら必ず極楽に往生する』と言えば、それを信じんとあかんのや。極楽があるとかないとかと言う世界と違う」。
とこう答えられたというのです。
あるとかないとかを考え、決めつけるのではなく、「信」を得ることが大切なのです。信じて止まない心を養うのです。
猫を見て「あれは猫だと信じている」とは言いません。知っているものには「信」を使わないのです。また、「明日は晴れると知っている」とは言いません。いくら天気予報で晴れと言われていても、その日にならなければわからないのです。しかし、わからないだけではそこに不安が生じます。その不安を乗り越える力が「信」なのです。明日は晴れると信じている。ただそう受け止めるだけで大いなる「安心」を得ることができるのです。
信じて迷わず疑わず、教えの通りに仏道を歩めば良いのです。
仏の教えを信じ、自らの心を信じ、信の心を養いながら、私たちも日々の生活の中で、「安心」を得てゆるぎない心、確固たる心を得ていきたいものであります。