法話

フリーワード検索

アーカイブ

白隠禅師のこころシリーズ〔10〕

(出典:書き下ろし)

 「財施は衆生の身苦を除き、法施は衆生の心苦を除く」
                 ―白隠禅師『八重葎』巻之三「高山勇吉物語」より

 布施というのはお釈迦様が定めた悟りに至るための6つの修行項目(六波羅蜜)のひとつです。「お布施」といいますと金品を包んで僧侶に渡すものというイメージがあるかもしれませんが本来の意味はもっと広く、互いに「施し」を与えあう「布施行」という修行なのです。財施も法施も布施行の種類の一つで財施は自分の持っている金品を施すこと、法施はお釈迦様の説かれた教え(仏法)を施すことです。
 財施は衆生の身苦を除く。これはイメージがしやすいですね。おなかが空いている人に食べ物を施してその「おなかが空いた」という苦しみを取り除いてあげる。頭が痛い人に頭痛薬を施してその「頭が痛い」という苦しみを取り除いてあげる。苦しみが目に見えるものであったり自覚のあるものであったりするならば、施しによってそれを取り除くことは比較的容易であるといえます。
 しかし私たちの「苦しみ」というのはその正体が分かっているものばかりではありません。心の苦しみというのはその最たるものであるともいえるでしょう。わけもなく心が晴れなくて、なんとなく気分が落ち込む。理由が分かっているならまだしも、その原因が分からないからよりいっそう苦しみが深くなってしまう。こういった心の苦しみを取り除くのが「法施」、つまり仏法の施しであると白隠禅師は説かれました。もちろんお経を読むことや仏様に手を合わせることも仏法ですが、それだけではなく、もっと私たちの日常に近いところにも仏法はあります。例えば、きれいに咲いている花は私たちの目を楽しませようとして咲いているわけではありません。しかし、その無心に輝く姿に私たちの心は動かされ、自然と晴れ晴れとした気持ちにさせてくれることもあります。そういった無心の姿に触れることも一つの「法施」だといえるのです。

rengo1706a.jpg 先日とある檀家さんの法事をさせていただいた時の話です。お経が終わってその後にお墓参りに向かいました。お仏壇にお供えしていたお花や果物などをお墓に供えてお経を読み始めようとしていた時のことです。その檀家さんには3、4歳ほどの孫娘がいました。皆ながご先祖様のお墓にお供え物をする様子を見ていて自分も真似したくなったのでしょう、道すがらに摘んでいた小さな白い花を持って「これもお供えしていい?」と私に向かって尋ねて来るのです。私がどうぞ、と促すとその女の子は自慢気に、手に持っていた小さなお花をお供えしてご先祖様に手を合わせました。その様子を見て周りにいる人も皆な思わず笑顔になり、その場に和やかな空気が流れました。
 女の子が施したのは小さな白い花という、一見すれば取るに足らないようなものでしたが、その花を無心にお供えする女の子の心が法施となって私たちに降り注ぎ、私たちを笑顔にしたわけです。このように仏法とは日常の至る所にありふれているものなのです。あとは私たちがそれを法施として有り難く頂戴することのできるかが問われているのだと思います。
 冒頭に述べたように「布施行」とは施しを与えあう修行、つまり施すと同時に施される修行なのです。純粋な心で与えられた施しを今度は純粋な心で有り難く頂戴する。布施行とはそういった心と心の関わり合いの中にある仏縁に目覚めるためにある大切な修行なのです。

Back to list