白隠禅師のこころシリーズ〔9〕
(出典:(『方廣』第43号より加筆修正して転載))
本年は臨済宗中興の祖であります白隠禅師の250年遠諱にあたります。
駿河には 過ぎたるものが 二つ有り 富士のお山に 原の白隠
と謳われ、白隠禅師は一般の方々にも分かりやすく禅を説かれました。
白隠禅師は、幼名を岩次郎といい、地獄が怖くて15歳の時に出家をします。師匠の単嶺和尚は、少年に「慧鶴」の名を与え、「ぼんさま、たしなまんせ」と言われました。そして居合わせた隣寺の東芳和尚が、「三顧摩」ということを教えたのです。
「三顧摩」とは、一日三度は頭を撫でて自己を省みなさいということです。まず第一に頭に手を置いて、
「何のために自分は頭を剃ったのか」
二回目は、
「いったん頭を剃った以上は、禅僧として何をなすべきか」
三回目は、
「一体何ができたならば、出家としての生涯を全うしたことになるのか」
という反省です。
私が生まれ育った沼津市西浦江梨は、伊豆半島の付け根にあり、駿河湾の向こうには、世界遺産となった霊峰富士がそびえます。この江梨という村の杉山家から原の長沢家に養子に入り、その子として生まれた方が後の白隠禅師です。
私は、この村の海蔵寺で生を享けました。海蔵寺の門前に杉山家はあり、杉山家のお婆さんから手作りの着物、襦袢、脚絆をいただいて禅の修行に旅立ちました。
修行に入って間もない頃、杉山家のお爺さんが亡くなり、お経をあげにお参りさせていただいた時のことです。お仏壇の前で経本を忘れたことに気が付きました。
「まあ、いいか」
この思い上がりがとんでもないことになるのです。
般若心経と本尊回向はなんとか済ませ、『白隠禅師坐禅和讃』の中程まで進んだとき、はたと止まってしまいました。次の文句が出てこないのです。焦れば焦るほど頭の中は真っ白です。脇の下、背中から冷や汗がとめどなく流れます。最後は為す術もなく、お婆さんに頭を下げて帰ったようでした。そのくらい記憶にありません。しかし、後からお婆さんがお布施を届けてくれました。その時に誓いました。「しっかり修行しなければ…」と。
12世紀の頃、中国・五祖山の法演禅師は「吾、参ずること二十年、今まさに羞(はじ)を識(し)る」と言われました。「永いこと坐禅をしてきて何がわかったか。只、自分に恥じ入るばかりだ」というのです。
「坐禅をすればするほど、自分のいたらなさに気付く。真剣に打ち込めば打ち込むほど、自分の愚かさがはっきりしてきます。そういう経験を通してはじめて人の弱さや痛みに気がつき、慈悲の心に目覚めるのです」と円覚寺の横田南嶺老師も仰っています。
今までの自分を振り返り、とても羞かしい気持ちで一杯ですが、この「三顧摩」や「羞を識る」の反省をふまえ、あくまでも謙虚に、さらに周りに引き回されることなく、自分の主体性だけはしっかり持って、さらなる精進を誓う次第です。