知足 ~今あるものを生かしきる大切さ~
(出典:書き下ろし)
人は誰しも自分が可愛いものです。しかし、これは人間だけに限りません。他の動物、植物すべて、自覚するか無自覚は別として、みな自分のために少しでも都合の良いことを求めます。これは善悪を超えた真実の営みなのでしょう。
自分が生きるために、他の生物を食べることは避けられないことです。しかし、ライオンは、空腹のときは他の動物を捕獲して食べるが、いったん満腹になればもう他の動物を捕獲しようとはしないそうです。実際ライオンのそばで、小動物が草を食べているシーンを見ることがあります。
ところが人間はそうはいきません。あってもあってもまだ欲しいという心を起こします。私たちの持つ欲望は果てしないものです。そして、求めたものが得られずに苦しみ、求めたものが得られれば、また別のものが欲しくなりそこでまた苦しむことになります。
漂泊の俳人として知られた種田山頭火(1882~1940)には、多くの逸話があります。山頭火と無二の親友である大山澄太さん(1899~1994)が、はじめて山口県小郡に、山頭火の住む其中庵(ごちゅうあん)を訪ねたときのことです。山頭火の生活ぶりについて、かねてからその貧しさを聞いていた大山さんもびっくりします。
山頭火は、ゆがんだたった一個の鍋で米をとぎ、そのとぎ汁で茶わんを洗い、雑巾をかけ、最後にその水を、裏の狭い畑のわずかな野菜にかけてやるのです。二人が食べる米をとぐ鍋も、掃除用のバケツも同じモノです。
彼の句に「一つあれば事足りる鍋の米をとぐ」があります。大山さんによると、山頭火はこの句のように、ときにはバケツの代わりに、一つ鍋で米をとぎ、その鍋で飯を炊き、食べ終わると鍋は洗い桶(おけ)に代わるのです。きれいも汚いもありません。何回目かの訪問のときの、山頭火と大山さんの対話を紹介しましょう。
「勤めも儲けもせず、無論財産のないわしは、人から与えられたものと、棄てられてあるものを拾ってゆくほかない。この鍋は山口の病院の裏に投げてあった。この七輪は小郡の掃溜(はきだめ)にあったのだよ」と、山頭火。
「それはひどいね、汚いものでわしに食べさすんだなあ」と、私。
すると山頭火は、「君がそう言うであろうと思って、灰をつけてよく洗ったうえで、日光消毒しているから安心したまえ」。それが、良いとか悪いとか言うのではないが、あってもあっても足らぬ足らぬで不平の出やすい私は、何かしらどしんと叩かれたような気がした。
(『俳人山頭火の生涯』大山澄太著)
知足という禅の言葉があります。読んで字のごとく、足ることを知るということです。しかしこれは、現状に満足するという後ろ向きな意味ではありません。今、あるものを生かし切って生きて行くという前向きな言葉なのです。「あってもあっても足らぬ」。人間の欲望には際限はありません。巷には、物があふれ、それを生かし切ることなく、使い捨ててしまう時代です。そんな時代だからこそ、今、あるものを生かし切って生きてゆきたいものだと思います。