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白隠禅師のこころシリーズ〔8〕

(出典:書き下ろし)

 幼いころ、嫌いなものが食卓に並び、食べずに残していると、「残さず食べなさい」と叱られて、仕方なく口に運びました。如何に味わわずに飲み込むか。子供ながらに工夫した結果、渋い顔をして鼻をつまみながら食べていたものです。そうすると、わずかながら味がわからなくなるから。
 以前、ある料理人の方と話を交わしていたときに、教えられたことがありました。私たちが物を食べて美味しい、美味しくないと感じる。その味覚は舌で味わっていると考えがちです。しかし、鼻をつまむと味が少しわからなくなるのは先の通り。同様に両目を塞いでも、また両耳を塞いでも、味が少しわからなくなる。実は、私たちが物を食べるとき、五感を全て使って全身で味わっているのだと。とても示唆に富んだお話でした。
 北大路魯山人は「数の子は音を食うもの」だとして、音や食感の大切さに言及しています。「口中に魚卵の弾丸のように炸裂する交響楽によって、数の子の真味を発揮しているのである」(『魯山人味道』)とは、現代の食レポも真っ青の表現です。なるほど考えてみれば、「味」というよりは、音や香り、食感があって初めて美味しいと思う料理はたくさんあることに改めて気付かされます。目で味わう、耳で味わう、鼻で味わう、肌で味わう世界もあるということです。
 白隠禅師の『草取唄』の中にこんな一節があります。

  耳で見分けて、目で聞かしやれよ、夫(そ)れで聖(ひじり)の身なるぞや

rengo1701b.jpg 耳で見る・目で聞くとは、一見理解できない表現です。それは私たちが、目で物を見る、耳で音を聞く、鼻で香りを嗅ぐ、舌で味を味わう、肌に触れて感じる、と考えているから。しかし本来、五感というものは、それぞれ独立した単純な世界ではないのです。
 禅には「聴雪」という言葉があります。くしくも、魯山人の絶筆の書も「聴雪」だと云われています。雪を聴くとは、どういうことなのか。耳で聞く雪の音は、あまり感じられないかもしれません。しかし、静かな自然の中に佇んで雪降る景色を眺めるとき、目や耳、鼻や肌を通して全身で自然を感じているはずなのです。
 日本語には数えきれないほどのオノマトペ(擬音)があります。音のない雪も、「しんしんと降る」などと表現してきました。そんな古(いにしえ)からの日本人の感性に、「耳で見る、目で聞く」ことのヒントがあるように思います。そう考えていくと、例えば芭蕉の「蛙飛びこむ水の音」だって、白隠禅師の「隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)」だって、単なる耳で聞く音ではないのでしょう。
 そんな心に触れるためには、どうしたらいいのか。まずは、物を見よう、音を聞こう、香りを嗅ごうとするのではなく、心を静かにしていくこと。そして、静寂の中で自ずから見えてくる、聞こえてくる、香ってくる世界を大切にしていきたいのです。そよぐ風や小鳥のさえずりといった何気ない自然に小さな気付きを得ることが、禅への大きな一歩になるのだと思います。

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