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「食い物の恨み」 と 「下化衆生」

(出典:書き下ろし)

  「食い物の恨みは怖い」と言いますが、実際に修行時代の思い出には食べ物に関わる事柄が少なくありません。夏の炎天下、汗だくで作業をしている日の斎座(昼食)に、よく冷えた茄子汁を出していただいて生き返るような心地だったこと。逆に、雪の日に托鉢に出て、手も足も凍りつくような状態で道場に帰り着き、やっと寒さに震える体を温めてくれる食事をいただける、と思ったはずが味噌汁もご飯も冷え切っていた、あの時の、これ以上ないがっかりした気分と腹立たしさ。

 とある道場である日、斎座が大変まずかったそうで知客さん(修行僧の行動を管理する高位の役寮)が「こんなまずいもの出したらいかんじゃないか」と典座(食事係)を叱ったところ、「私たちは修行しているのですから、美味いとか不味いとか不平不満を言ってはいけないんじゃないですか?」と言い返されたそうです。するとそこに老師さまが来られて「おいおい! 道場での楽しみなんて、食べること以外には何もないのだから、心づくし美味いものを作ってやらんといかんのだ!」と一喝されたということです。
 
myoshin1611a.jpg 「上求菩提、下化衆生」――簡単に言えば、自らは悟りを目指してひたすら修行しながら、同時に自分以外の人はひたすら救っていこう、ということでこれは大乗仏教のモットーと言っていいと思います。私達の「禅」は一般的には専一に坐禅をして自己を見つめ、いつか大悟徹底するのが目的だ、という「上求菩提」の方が前面に来るイメージですが、修行が進めば進むほど、やはり「下化衆生」が大切なんだな、とわかってきます。坐禅のしかたについて丁寧に述べられている『坐禅儀』にも冒頭に「それ学般若の菩薩は、まずまさに大悲心を起こし、弘誓願を発し」と書かれています。すなわち仏の叡智に近づこうとする修行者はまず一切の衆生を救ってゆくぞ、という誓願が必要だということです。坐禅をするのも人のため、決して独りよがりの悟りを目指すものではないし、逆に修行なのだから自分も他人もきついのが当たり前、ではないのです。

 先日、久留米の梅林寺僧堂で羅山老師百五十年、三生軒老師百年遠諱の報恩大摂心がありました。全国から50名ほどの雲水さんたちが集まり4日間の坐禅三昧です。梅林寺出身の古参OBの和尚さんたちも裏方でしっかり汗をかきました。3日目の薬石(夕食)の時、たっぷり作ったはずの食事が一番座であっという間になくなり、持ち回りで一番座のお給仕をする参加者の雲水さん数名と裏方の和尚さんたちが一緒に食べる二番座の食事が少し足らないだろう、という事態になりました。その時、ご意見番の最古参OB和尚が一声「お給仕の雲水さんたちが食べる分には十分あるから、二番座は雲水さんだけで食べてもらえ。わしら裏方の和尚はお昼の残飯を雑炊にして食べるぞ~」。
 ああ、これだよな、と私は自分の空腹も忘れて清々しい気持ちでした。
 「自未得度先度他」、自分が得るより先に他人を度す。この菩薩の心こそしっかり坐禅修行をした者の証だと思いました。
 私がその古参和尚に「いやあ、大乗仏教って本当にいいですよね! 改めてそう思いました」と言うと、和尚は「ハァ?」と首をかしげました。これですよこれ!

 どこまで修行しても釈尊にはほど遠い私たち、ならばこそ「下化衆生」に大きな意味が見えてきます。自分のしたことで人の笑顔が見られた時の喜びを大切にできれば、すでに「上求菩提」にも通じているのではないか、と私は思うのです。

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