寂室禅師のこころシリーズ〔3〕
(出典:書き下ろし)
「宗教」とは何か?
この問いかけを一番よく理解してくれるのは、子どもたちです。たとえ一人ぼっちになっても、お父さんお母さんが傍にいなくても、良い子にして居れる事が「宗教」であるからです。
両親よりも理屈で勝り、ひとり自分の殻に閉じこもり、人様が見ていようが見ていまいが、お構いなしの大人が増えているこの現代。「宗教」への理解を私たちは日々見つめていく必要があります。
たった一人になっても、良い子にしていられるかどうか。大人は「良い子」の定義から注文をつけます。学識経験は、子どもに比べるまでもなく身につけているというのにです。
先日、車でコンビニの駐車場に入った際、そこに真新しい高級外車が停まっているのが目に入りました。すると運転席側のドアが開いて、足元の地面に飲み終えた空き缶が捨て置かれました。拍子が合ったのか、またタイミングよくその方と目が合ってしまいました。分別ありそうな中年の男性でした。目が合った瞬間の男性の一瞬歪んだ表情が、何ともいえませんでした。
車はすぐに走り去りましたが、入れ違いに駐車した私は降りて、空き缶を片づけようと手にすると、それはビール缶でした。
永源寺開山寂室元光禅師は、南北朝という動乱の中、人心惑わす世情を見極め、次の世代に純然なる禅を伝えるため、都市部を離れ深山幽谷の地を好んで道場を開かれました。本年は禅師の650年の遠諱が厳修されます。
周囲が騒ごうが騒ぐまいが、自己をしっかりと保つ。禅師の伝道に尽くされた御生涯に、今日も尚、多くの人々が敬慕の念を抱かれております。
禅師の御言葉に、
錯(あやま)って黄金を把(と)って鉄牛を鋳(い)る
現代語訳『とんでもないことだ。黄金で鉄牛を鋳てしまった。』
(暦応辛巳七月六日暁 偶夢将死写偈 覚而記之云)
という語があります。禅師が52歳の頃、御自身が死ぬ臨終の夢を見た後に記された偈頌の一節であります。瞑目したと思ったら夢であった。夢と現実、迷悟一如に己と向き合う姿を説いておられます。禅師の崇高なる境涯を未熟者がうかがい知るべくもございませんが、表面的な意味においても、示唆に富んだお言葉であります。
私達は生まれながらに、黄金と全く変わらない価値を持つ心の宝を具えています。しかし、とんでもないことに、いつの間にかそれが毒になり凶器になったりもする。
私なりの表現をお許し頂けるなら、
「なんでそうなるのっ!」
であります。
先述した綺麗な高級外車の運転手。せっかく大金叩いて求めたものを、飲酒して乗ればそれは恐ろしい鉄の凶器です。禅師のように道心堅固な鉄牛を鋳れば永遠の尊崇を得られますが、鉄の凶器を走らせればどうなるのか論ずるまでもないことです。
私はコンビニの入り口近くにあるゴミ入れへ、やるせない思いで空き缶を手にしながら近づくと、ゴミ袋の交換に出てきた女性の店員さんと目が合いました。
ふたりの間に言うに言われぬ空気が流れました。
店員さんの視線に、鉄牛ならぬ鈍牛の如く耐えながら、私はビールの缶をゴミ入れの穴へ落としたのです。
「なんでそうなるのっ!」