寂室禅師のこころシリーズ〔2〕
(出典:書き下ろし)
本年は日本臨済宗を挙げて慶讃すべき宗祖臨済禅師、および日本臨済禅中興の祖、白隠禅師の遠年諱に正当します。折しも時を同じくして、わが永源寺派に於きましても、開山寂室元光禅師(正燈国師)650年遠諱を迎え得たことは、一派挙げての一大慶事であります。
永源寺開山寂室元光禅師は、正応3(1290)年、美作の国(現在の岡山県真庭市)のお生まれで、藤原氏一門の末裔として生を享けられ、13歳にして両親の願いにより出家し、京都東福寺第七世住持、無為昭元禅師に就いて祝髪されました。後、鎌倉におられた約翁徳倹禅師に参禅し、その印可を得て「元光」の諱を得、さらに31歳にして元の国に渡り、西天目山に登って中峰明本禅師の室を究め、中峰禅師より「寂室」の道号を授けられたのであります。
ようやく帰国された37歳の寂室禅師は、中峰禅師に倣って都を遠ざけ、韜晦(とうかい)すること実に35年、主として故郷に近い中国地方の茅庵や、摂津、近江、美濃、甲斐などの山谷を行脚されたのであります。
禅師の禅心を示す多くの詩の中でも、特に小衲が平素より心に刻んでいるものがあります。
山 居
不求名利不憂貧
隠処山深遠俗塵
歳晩天寒誰是友
梅花帯月一枝新
名利を求めず 貧を憂えず
隠るる処山深うして 俗塵を遠ざく
歳晩れ天寒うして 誰か是れ友
梅花月を帯びて 一枝新たなり
金蔵山の壁に書す
風撹飛泉送冷声
前峰月上竹窓明
老來殊覚山中好
死在巌根骨也清
風 飛泉を撹いて 冷声を送る
前峰に月上って 竹窓明らかなり
老來殊に覚ゆ 山中の好きことを
死して巌根に在らば 骨也た清し
71歳にして近江の桑実寺(現在の近江八幡市安土町)に逗留中、土地の守護職佐々木氏頼と出会い、氏の篤い帰依を受けて、72歳の時、近江の雷渓(現在の東近江市永源寺)の地に一茅舎を造り、これを晩年の地と定められたのであります。これが今日の大本山永源寺の基いとなったのであります。
もっとも禅師が永源寺に留まられた後もなお、一処定住を嫌われたことは、弟子に対する『遺誡』において、次のように述べられていることに、よく示されていると思います。意訳しておきます。
私がこの世を去った後は、林下に韜晦して一生を終えよ。これは釈尊最後の慈訓である。命果てたならば、私の遺骸は他の人に見せず、すぐに埋葬せよ。土をかけ、その上に石を載せ、楞厳呪一巻を読めばよい。寄進された熊原の地は、佐々木氏頼公に返還し、住んでいる茅庵は、高野村の父老に与えて、各自散じ去れ。もし父老たちが固辞したときは、老成の僧を庵主に迎え、安禅弁道の処とするもよい。この他に言うことはない。
寂室禅師は多くの偈頌をもって、悟りの境地を示されており、われわれ寂室派下は、禅師の示されたこれらの詩によって自己を顧みる鑑としております。因みに禅師入寂の10年後に編まれた『寂室和尚語録』には、晋山法語のような公式的なものは一切含まれず、もっぱら詩文の形で述べられた偈頌や仏祖賛、あるいは散文の法語のみであります。
このような開山禅師のご遺誡にも関わらず、今日、永源寺は大本山として130の末寺があり、一派を挙げて禅師の遺徳を讃えるとともに、堂宇伽藍の維持に努めてまいりました。
このたび禅師の寂後650年に当たり、大遠諱を厳修することが、果たして禅師の心に沿うものかどうか、内心忸怩たるものがありますが、この大遠諱を契機として一派の僧俗が、こぞって禅師の韜晦の精神を思い起こす機会となれば、われわれにとって50年に一度の好き機会になると思います。
因みに、開山寂室禅師に対する報恩の大遠諱は、11月1日から7日まで、執り行うことになっております。
願わくば開山禅師、定中昭鑑あらんことを。
(『臨済会報』より転載)