一人の生命は地球よりも重い
(出典:書き下ろし)
9月の声を聞くと、思い出す大事件があります。39年前の1977年、日航機がハイジャックされ、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸させられました。犯人は、日本政府に拘置・服役中のメンバーの釈放と高額な身代金を要求しました。拒否すれば、人質となった乗員、乗客を殺害すると。
苦渋の決断を迫られた政府は、超法規的措置をとり、要求に応じたのでした。その時、当時の福田首相がつぶやいた一言が、「人の生命は地球よりも重い」でした。
実はこの言葉は、敗戦直後の新憲法のもとで、死刑の是非が争点となった最高裁判決の冒頭部分にも「生命は尊貴である 一人の生命は、全地球よりも重い」と使われています。判決文を書いた真野毅判事は、明治の多くの人々が愛読した『西国立志編』(中村正直著)の序文から引用したと、後に明かしています。「一人の命は全地球よりも重い」は、明治以来ずっと、日本人の心の中でこだまし、問いかけてきた言葉なのです。殺(サツ)の時代とまで言われる今日、私たちはこの言葉を問い直し、日常の生き方にどう関わるか考えてみたいものです。
炎暑真っ盛りの早朝のことでした。朝から喧しい蝉の鳴き声が、室内までも響きます。妻が玄関を開けて、一歩踏み出した途端、グシャリとした感覚が足に伝わりました。その瞬間、鳴き声がピタリと止まったのです。庭木に留まって鳴いているとばかり思っていた蝉が、三和土(たたき)の上に見るも無惨な姿となって潰れていました。永年月の地中生活から出て、地上で生を謳歌しようとしたであろう蝉の生命を断ってしまった悔恨の念が、妻から離れません。
人間は勿論、動物も虫も植物もかけがえのない生命を生きています。生命を奪うことは、それぞれが自分を躍動させていくであろう可能性を断つことであり、今、自分に来ている生命の集積、更に次へ継承する生命の連鎖を閉ざすことになります。予期せぬこととはいえ、妻の後悔の大きさがわかろうものです。
盛永宗興老師は、命について次のように示しておられます。
限られた個体が存在し続けている間が生命なのではなく、明滅しながら、生まれ変わり死に変わり、色々な形に変化し、雲となり、水となり、空気となり、(中略)木となり、草となり、人間となり、猿となり、ありとあらゆる現象として現われながら、その〈命〉がずっと動いている。
(出典:盛永宗興編 1994年『禅と生命科学』紀伊國屋書店)
一つの生命を通して命の根源を見つめると、生命を生命たらしめている”大いなるいのち”に気づきます。この大いなるいのちにめざめ、すべてのものを生きとし生けるものと拝むことができる日常底こそ、一人の生命の重さを実感して生きることであろうと思うのです。