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寂室禅師のこころシリーズ〔1〕

(出典:書き下ろし)

 滋賀県の永源寺は、私が生まれた東近江市にある臨済宗永源寺派の大本山で、母の実家にほど近い所にある。しかも、その永源僧堂の修行僧(雲水)が、近年まで母の実家(桝田家)に托鉢の折に点心(昼食)の接待を受けていたという。その因縁が私を在家から出家へと導いたというのが、母の口癖になっている。

rengo1609a.jpg さて、その永源寺の開山、寂室元光(じゃくしつげんこう)禅師は鎌倉時代後期、美作(みまさか/岡山)生まれで、出家後に当時の高僧・約翁徳倹(やくおうとくけん)禅師に師事し、その法を受け嗣ぐ。そして、31歳の時に中国・元に渡り、純粋禅を標榜している中峰明本(ちゅうほうみんぽん)禅師につき参禅弁道、さらに禅道を究める。しかし、寂室は37歳の帰国の船中で、この師である中峰より授かった印可の証である親筆の偈頌(げじゅ/偈の書かれた墨蹟)や、中国の高僧より賜った送別の漢詩までも他人にくれてしまう。これは、どういうことであろうか。

 禅語に「没蹤跡(もっしょうせき)」という言葉がある。これは、何事も無心に行ない、心に跡をとどめず、執着しないことを意味する。例えば、自分は素晴らしい資格を取ったという思いがあると、その思いが痕跡となり、心にこだわりが生まれ、増上慢を起こす。この慢心を寂室は徹底的に嫌った。そういう思いが、師から授かった印可状にすら、執着しなかったのである。その後の人生でも、名利を離れ一所不住の生活を続けた。
 そして71歳の時、近江の守護・佐々木氏頼(うじより)の要請で永源寺の開山となる。そして、この山深い風光明媚の地で晩年を迎えるが、その徳風を慕って多いときには2000人もの修行僧が集ったという。しかし、この永源寺開山の任は、佐々木氏の懇願を辞退しきれず、やむなく従ったもので、寂室の本望ではなかった。京都華厳院の黙翁に送った書状には、「思慮なくこの院に臨んだ」と、深く考えずに永源寺に住持したことの後悔の念を吐露している。やはり、寂室の本心は世俗を離れ、大自然を師として枯淡に生きたかったのである。

 寂室の遷化に先立って残された遺誡(ゆいかい)には、自分の遺体の後始末の仕方を具体的に指示し、次いで佐々木氏より寄進された寺領を返還すること、さらに永源寺を地元の高野郷(たかのごう)の長老に譲り、弟子は解散して山中や人里離れたところで修行するよう厳命している。

 解説文を書かれた入矢義高氏は、この寂室の遺誡を「これほど厳粛で清冽な遺誡は、日本の禅僧では他に比類を見ない」と称賛している。まったく、永源寺開山という地位や名誉、そして永源寺自体にも執着がない。

 この枯淡な寂室の境涯をよく表わした詩偈に、次のようなものがある。「老来ことに覚ゆ 山中の好(よ)きを 死して巌根に在らば 骨もまた清し」(年老いてからひとしお山住まいが好ましい。岩の根もとで死ねば骨もすがすがしい)。
 この詩からも、寂室が自然と共に生き、自然に溶け込んでいる様子が伝わってくる。

 昭和46年の夏、私が小学校6年の時に、当時の課外授業で「永源寺キャンプ」というものがあり、同級生の生徒全員約100名が永源寺の本堂に雑魚寝(ざこね)をして、一夜を過ごした。その永源寺の門前には大きな川が流れていて、その清冽さに、心が洗われた想い出がある。
 今でも、このすがすがしい川を見ると「落花流水に随う(らっかりゅうすいにしたがう)」という句が思い起こされる。この句は、花びらが川に舞い落ちると、流れのままに身を任せて流れていく。花びらは自然に散り、川もまた自然に流れているだけ。なんのはからいもない、無心そのものの表われを意味している。おそらく、寂室も花びらが川面を流れていくがごとく、生死を悟り、大自然にこの身を任せようという心情であったろう。

 この大自然を師となした孤高の禅僧・寂室の禅風こそ、物質文明に汚染された、現代に求められているものではないだろうか。

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