しゃぼん玉に思う
(出典:書き下ろし)
まったく同じ光景を見ても、その受け取り方は人それぞれだと思います。
その人の心の状態がどんな風であるかによって、同じことがらであっても、楽しく見えたり、悲しく見えたりすることがあると思います。
もう100年ほど前の話ですが、ある日、村の子供達が楽しそうに遊んでいました。その子供たちは、しゃぼん玉遊びをしていました。
その様子をみて、ある人は、とても楽しい気持ちになりました。けれど、ある人は、また違う思いを抱いて、詩にしたためた。そんな童謡があります。
しゃぼん玉
野口雨情作詞(大正11年)
しゃぼん玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた
しゃぼん玉消えた
飛ばずに消えた
産まれてすぐに
こわれて消えた
風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ
できてすぐ消えるものもあるし、空高くとんでいくものもあります。いずれにせよ必ず消えていく。それがいつなのか、いつ消えるかもわからないしゃぼん玉は、私たちの命のようでもあります。
昔、白隠禅師の時代に庵原の平四郎という人がいたそうです。あるとき、山中の滝の水が流れ落ちて滝壺に泡ができる。見ていると、ある泡は1尺ぐらい流れてポッと消える。しばらく流れる泡があっても、2間~3間流れて必ずポッと消えてゆく。
その泡を平四郎さんは見て、「いったい、私はどの泡だろう」と思った。命というのは、ちょうどこの泡のようなものだと感じたのです。恐ろしくなって、もう居ても立ってもいられなくなりました。
帰り道に、たまたま人が
勇猛の衆生のためには成仏一念にあり、
懈怠の衆生のためには涅槃三祇に亙る
という沢水和尚の法語を読むのを聞きました。勇ましく、心を奮い立たせた人のためには、成仏はこの一念にある。しかし、怠け者には、永遠に安心の境地は得られない。という意味です。それを聞いて平四郎さんは、
「今やらないで、いつやるんだ。私がやらないで、誰がやるんだ。」
と心を奮い立たせ、三日間の坐禅の後、大安心を得、白隠禅師に認められました。
これを思うに、まずこの世の「無常を感じ取る」という感性が大事だと思うのであります。無常を感じ、それを恐ろしいと思う心がバネとなり、安らぎを求める強いエネルギーとなります。
「窮すれば通ず」。困った時ほどチャンスだと思って、乗り切ってゆきたいと思います。
安らぎは、もうすぐそこに。