臨済禅師のこころシリーズ〔6〕
(出典:書き下ろし)
皆さんは「自分とはいったい何だろう」と不安に思ったことはありませんか。
私たちは普段、自分の過去の経験を基準に物事を考えて生活しています。常に変化する世界の中で、何の問題なく順風満帆であればよいのですが、時に自分では受け止めきれないような大きな変化に直面することもあります。
臨済禅師のお言葉をまとめた『臨済録』に「病、不自信の処に在り」というお言葉があります。「病」とは、「自分とはいったいなんだろう」と不安に思うことです。その「病」の原因は、自分で自分自身を信じられないことだというのです。ただし臨済禅師の説かれる「自分」とは、私たちが自分だと思い込んでいる喜怒哀楽の感情や外に求める欲望のことではありません。私たちの心の奥底で変化の波に左右されることのない、心の「根っこ」の部分のことです。この「根っこ」に気づくためには、外に向かって働く心を内に転じることが必要になります。
詩人の星野富弘さんは、詩を読むことと身体を動かすことが好きで、中学校の体育の先生になりました。
ところが先生になった年のクラブ活動の指導中、事故で体の運動機能を失ってしまったのです。入院中の星野さんは絶望を味わいました。「私は母の胎内から出た時のように素っ裸になってしまった。何一つ持ち合わせていなかった」。
星野さんにとって、不安で眠れない夜が恐怖になりました。
ある時、暗誦している詩がいくつかあるのを思い出しました。そこで、心を内に転じて、憶えている限りの詩を片っぱしから、何回も飽きることなく繰り返しました。すると、いつの間にか穏やかな眠りにつくことができたのです。
星野さんの作品の中に「はなきりん」という詩があります。
「はなきりん」
動ける人が
動かないでいるのには
忍耐が必要だ
私のように 動けない者が
動けないでいるのに
忍耐など 必要だろうか
そう気づいた時
私の体をギリギリに縛りつけていた
忍耐という 棘(とげ)のはえた縄が
“フッ”と解けたような 気がした
星野さんにとって忍耐とは、動けないことを耐え忍ぶことです。動けないというありのままの自分を受け入れることができれば、もう何も耐え忍ぶことはありません。今まで外に向かっていた心を内に転じることができたからこそ、新しい世界が開けてきたのです(そういえば、はなきりんの花言葉には「逆境に耐える」などがありました)。
星野さんの著作に、「過去の苦しみが後になって楽しく思い出せるように、人の心には仕掛けがしてあるようです」。という言葉がありますが、この「仕掛け」こそ心の「根っこ」の働きではないかと思います。
どんなことがあっても、変わることのない自分自身の心の「根っこ」を信じられるかどうか。臨済禅師の「病、不自信の処に在り」というお言葉を拠り所に自分を見つめ直してみてはいかがでしょうか。