白隠禅師のこころシリーズ〔5〕
(出典:書き下ろし)
どんな人でも幸せを求めない人はいません。求めるということは、不幸だという思いがあるからでしょう。
そんな私たちに警鐘を鳴らすかのように、白隠禅師は「遠く求むるはかなさよ」(求めていくほどむなしいものは無い)(『坐禅和讃』)と説かれました。
「幸せ」は元来「仕合わせ」と書きました。「仕合わせ」とは、良いも悪いも得するも損するも、巡り合わせに順って受け入れるということです。今、幸せをそのような元の意味でとる人はまれで、むしろ自分に都合の良い事が起こることを、幸せと呼んでいるように思います。そんな幸せはいくら求めても実現するはずがありません。
幸いの中の人知れぬ辛さ
そして時に
辛さを忘れてもいる幸い。
何が満たされて幸いになり
何が足らなくて辛いのか。
吉野弘さんの「漢字喜遊曲」という詩の一節です。「幸せ」と「辛さ」の関係を詠んでいます。吉野さんはまた、「普通、幸という字を見て、その中に含まれている辛に気付く人は殆どいない」(『現代詩入門』)とも指摘しています。
これらを併せて読み解いていくと、どうも幸せというのは、求めていくものではなく、また辛さ・苦しみをその中に包み含んでいるもの、であるようです。そういえば「辛抱」という言葉もありますね。私たちが幸せを求め、辛さを避けようとすることは、実はほんとうの幸せから最も遠ざかってしまう方法なのです。
しかし辛さ・苦しみを受け入れるといっても、そう簡単には受け入れられません。そんな時どうしたら良いのか? その答えをタンポポの習性に学ぶことができます。
タンポポといっても、よく見かける外来種のセイヨウタンポポではなく、もともと日本に自生しているニホンタンポポです。セイヨウタンポポの極めて強い繁殖力に比べ、ニホンタンポポは分が悪く分布地を追われていますが、ニホンタンポポにしかない戦略をとることで生き残っています。
それは日本の四季をうまく受け入れるということです。ニホンタンポポは春にしか花をつけません。それはまだ他の植物が伸びきらないうちに実をつけて飛ばしてしまうためです。
そして他の植物が成長する夏になると、自ら葉を枯らして根だけ残して冬眠ならぬ「夏眠(かみん)」をします。過酷な暑さや他の植物と競争して疲弊するよりも、それらをやり過ごして、他の植物が枯れる秋になると、また葉を出し冬を越し春に備えます。(参考:『身近な野の草 日本のこころ』ちくま文庫刊/稲垣栄洋著)
四季の気候や、他の植物との競合という辛さをうまく受け入れた上でのニホンタンポポの生き方は、私たちの幸せにつながる生き方として大いに学ぶところがあると思います。私たちも辛さが受け入れられない時には無理をせず、タンポポの「夏眠」のように、しばらくやり過ごす、そういう受け入れ方もあるのです。タンポポに見習って暮らしているうちに次第に心が落ち着いて、辛さをも忘れている幸いに行き着けるのかもしれませんね。